2‐29金毒解毒

 朗報が飛びこんできたのは翌朝のことだった。宮廷の庖房くりやを間借りして朝の薬膳を調えていたとき、官吏が息を乱して駈けてきた。


食医しょくい様、ご報告いたします。今晩から患者にできていた鉱物の塊がどんどん減っていき、朝起きたときには残らずなくなっていたとのことです。おそらくは解毒が終わったものかと」


 慧玲フェイリンはまな板から視線をあげ、喜びに緑眼を輝かせた。


「ほんとうですか! ただちに診察に参ります」


 朝餉の支度はちょうど終わったところだ。

 藍星ランシンを連れて、仮設病室に赴く。病室のある廻廊まできたところで患者たちが歓声をあげ、いっせいに飛びだしてきた。


「食医様」


 患者たちは一様に表情が明るく、始終つきまとっていた病の陰りは取りはらわれている。それだけでも、解毒を完遂できたのだとわかる。


「みな、すっかりとよくなりました」


「食医様のお陰です」


「信頼しておりました、かならず助けてくださると」


 患者たちは感極まって、かわるがわる慧玲の手を握り締め、御礼の言葉を述べた。随喜ずいきの涙を浮かべているものもいる。

 念のため、患者全員の診察をした。


「舌診、聞診、脈診、腹診、いずれも異常なしです」


 患者から歓声があがった。

 薬を調えるとき、この薬では解毒できないのではないかと敗北を疑ったことは一度たりともない。だが、薬が毒を絶つまで、患者が毒に敗けずに持ちこたえてくれるか。それだけは祈るほかにない。

 医師もまた、患者を信頼して、託しているのだ。


「よく毒に克ってくださいましたね、ありがとうございます」


 透きとおるような微笑を湛え、患者たちにむかって頭をさげた。


「そんな、頭をあげてください」


「食医様の薬膳があったから乗り越えられました。毎食、毎食がどれほど楽しみだったことか。解毒の薬だというばかりではなく、心の支えをいただきました」


 後ろでは藍星ランシンが「そうでしょうそうでしょう」と言わんばかりに頷いている。


「ほんとうによかった……」


 いっきに緊張が弛んだのか、きんと耳鳴りがした。まわりの声が遠ざかる。続けて眩暈に見舞われ、視界がかすんだ。


 立ち続けていられず、慧玲は崩れおちる。


慧玲フェイリン様っ」


 藍星がかけ寄ってきた。

 だが、それよりさきに慧玲を後ろから抱きかかえたものがいた。毒々しい紫が、眼のなかに滲む。


ヂェン


「あんたはほんとうにどうしようもないな」


 ため息がひとつ、落ちてきた。

 なのに、たまらなく安堵した。魂ごと絡めとられて、毒の底に吸いこまれていくような奇妙な浮遊感。絶えず張りつめていたものが、突き崩されるようにほどけて、ふっと意識が遠ざかる。


「えっとですね、慧玲様はすっごくお疲れで、殆ど眠っておられなくて」


「だろうね」


 藍星が弁明しようと懸命に喋るのを遮って、鴆は慧玲を抱きあげる。事情を知らぬ患者たちは皇太子様が食医を抱いているというだけでも動揺していたのだが、鴆は慧玲の唇に接吻くちづけを落とした。


「!」


 藍星や患者たちは魂を抜かれたようになる。


「彼女は預かるよ」


 鴆は微笑んで、眠りに落ちた慧玲を連れていってしまった。

 藍星は理解が追いつかずにしばらく惚けていたが、鴆の背がすっかりと遠ざかってから、ぼんっと耳の端まで紅潮させた。


「い、いまのは……あ、愛……愛ですか、愛ですよね! はわわわわっ!」


 騒ぎながら、藍星がぐるぐると眼をまわしていたのはいうまでもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る