第七部《血の毒》に錯乱する

2‐20禍の予言に竹の花咲く

 明けきらぬ春の空に清浄せいじょうなるしょうの音が響いた。


 宮廷には天地壇てんちだんという大規模な祭殿がある。皇帝や宮廷官巫きゅうていかんふ祭祀さいしを執りおこなうさいにつかわれる建物で、天地の循環を表す五陵星ごりょうせいをかたどっていた。春の晴明祭せいめいさいにさきがけて、天地神明てんちしんめいの神託を授かるための祭祀が催されている。

 祭壇では宮廷官巫の姑娘むすめ青桐あおぎりの枝を振り、祈祷をしていた。額に黄金こがねの冠をつけ、唇の先端にだけ赤い紅を施している。


 月静ユェジン。秋の季妃きひであり、宮廷官巫きゅうていかんふの最高指導者だ。しょう篳篥ひちりきによる祭祀楽さいしがくが奏でられるなか、ジンは重みのある髪を振りみだして祭壇を跳ねまわり、奇声をあげて歌舞かぶを演じている。眼はらんらんとして祈祷がはじまってから瞬きをしていなかった。

 あれは神懸かみがかりというものだ。


 祭壇を取りかこむ廷臣えいしんたちは尋常ならざる神威しんいに息をつめながら、神託がくだる時を待ち続けている。


天地神明てんちしんめいは宣った」


 ジンが突如地にひざまずいた。背を後ろにそらして天を振り仰ぎ、大声を張りあげる。


「飛べぬ鳥が夜に鳴き、皇帝の御座す地に大いなる禍をもたらすであろう」


 奇妙な神託だ。廷臣たちは如何なる暗示かと顔を見あわせる。理解できるのはひとつ、宮廷にわざわいがもたらされるということだ。

 ジンは神託を終え、倒れこむ。ほかの官巫たちが静を抱きかかえて祭壇からおろした。


「不吉な」


「飛べぬ鳥とはよもや」


 宮廷官巫を信仰する元老たちがざわめいた。

 続けて元老たちの視線がディアオ皇帝の落胤らくいんたるヂェンにむけられる。軽侮と疑いの眼だ。鴆はひそかにため息をついた。


 神託がいかなる噂をともなって拡散されていくかは、考えるまでもなかった。



 

       ◇



 

 風邪ふうじゃの嵐が去って、後宮に賑々しく春がきた。

 梅はこぼれ、桜が咲き綻ぶ。競うように花桃はなももが莟を弾けさせ、さながら花の宴だ。

 だが、花とは咲いてしまえば、あとは潔く散るものだ。早くも風に舞いはじめた桜を眺めて、藍星ランシンが惜しむように息をついた。


「あーあ、あんなに待ち遠しかった春もあっというまに終わっちゃうんですね」


 かごを抱えて先を進んでいた慧玲フェイリンが「まだまだですよ」と振りかえる。


「花ばかりが春というわけではありません。草の春はこれからです」


 薬師にとって春は雪を割って草が萌える睦月いちがつからはじまり、雨季うきまで続く。離舎りしゃのまわりは日が差さず、芽吹きが後れるので多様な草が勢いよく萌えだすこの春分の候はとくに胸が弾む。


「ほら、よもぎですよ」


 身をかがめて、慧玲フェイリンは青々とした若葉を摘む。

 芽ばえたばかりのよもぎの葉は綿のような産毛をまとっていた。朝の露を乗せ、きらめいている。さわやかな緑のにおいがする。胸いっぱいに草の香を吸いこむだけでも心が落ちつく。


「よもぎは乾燥させて、艾葉ガイヨウとして漢方薬にもちいます。血の循環を改善する効能があって、寒い時期にたまった毒を排出するのに役だつ薬なんですよ」


「だから、この時期によもぎだんごをつくるんですか? 風習というか、先人の教えは理にかなっているんですね」


「よもぎだんごはたっぷりとあんをいれて、さっと揚げてもおいしいんですよ。まわりはさくっ、なかからは熱々のあんがあふれてきて」


 藍星ランシンは味を想像したのか、ごくっと唾をのんだ。


「はわわ、ぜひともそれにしましょう。そうときまれば、篭からあふれるくらいに摘みますね」


 薬になるのはよもぎばかりではない。

 セリは解熱して風邪を退け、繁縷ハコベラは腸の働きを促進する。大葉子オオバコは気管支を潤わせて咳を抑え、スミレは眩暈を軽減する。

 春の野は薬であふれているのだ。


 薬草摘みを続けていた藍星が嬉しそうな声をあげた。


「慧玲様、みてください。竹の花が咲いていますよ」


 竹の葉の先端から、うす緑がかった花が垂れていた。稲の花に似ている。例えようもないほどに芳醇な香を振りまいていた。妙に惹きつけられる。


「えもいわれぬ香りですね」


「えっ、においは特にしませんけど」


 藍星は鼻を寄せたが、まったく感じられないのか、瞬きを繰りかえす。こんなに馥郁ふくいくたる香だというのに、残念だ。


「竹は百二十年に一度だけ咲くんですよね。書庫房としょかんの文献で読みました。根がつながっていて、咲いたらいっせいに竹林が枯れてしまうんだとか」


「そのとおりです。日頃から勉強しているのですね。ただ、風水の影響か、後宮では毎年竹が花をつけてくれるんですよ」


「ええっ、ほんとうですか。知らなかったです」


 花というには地味すぎて意識していないと見落としてしまうので、藍星ランシンが知らなかったのも無理はない。


「左様」


 後ろから声をかけられて振りかえれば、白妙しらたえの羽根で織られた被肩がいとうを身につけた妃がたたずんでいた。


皓梟ハオシャオ妃」


 慧玲はすぐに袖を掲げ、低頭する。

 ルー皓梟ハオシャオは冬の宮を統べる季妃きひだ。該博がいはくな知識を持っており、日頃から伝承の研究を続けていた。彼女は毒疫どくえき麒麟キリンの異変から端を発したのではないかと疑っている。


口碑こうひいわく、鳳凰ホウオウ梧桐アオギリにあらざればまず、竹実ちくじつにあらざれば喰わず――鳳凰は麒麟の幼生ようせいなり。後宮たるはもとは皇帝のために非ず、麒麟の浄域にわとして造られたもの。故に竹が毎年花を咲かせるのであろう」


「麒麟の浄域ですか」


 慧玲は先帝が処刑された晩に衰弱した麒麟と遭遇している。麒麟は先帝の死とともに息絶え、麒麟の遺骨はなぜか皇后が所持していた。


「そちらは踏青とうせいかや」


「そのようなものです」


 踏青とうせいとは春のこの時期に草を踏んで野遊びをすることを表す。青草を摘むのも踏青の一環だ。


皓梟ハオシャオ妃は調査ですか」


 皓梟はめずらしく宦官をひき連れていた。離れたところで皓梟が話を終えるまで待機している。


「左様よ。これより、びょうの調査に入る」


「あれ? 霊廟れいびょうって後宮の南西ですよね? それに廟は扉が固く閉ざされていて、誰も踏みこむことができないという噂を聴いたんですけど」


 藍星ランシンが尋ねるのも無理はない。離舎があるのは北東で方角としては正反対だ。


びょうに侵入できる地下通路が北東にあってな。そちらをつかうのだ。先々帝の頃まで宮廷毒師きゅうていどくしの一族がつかっていた経路よ」


 想いかえせば、慧玲はヂェンに誘拐されて霊廟れいびょうに監禁されていた。鴆はどうやって侵入したのかとおもっていたが、謎が解けた。


「だが、毒師の一族でも踏みこめたのは地下一階まで。しかしながら調査を進め、ついに隠し階段を発掘したのだ。ここからは未踏の領域よ。いかなる遺構が待ちうけているのか。どのような真実が明らかになるのか。ほほっ、年甲斐もなく胸が弾んでおる」


「えっと、皓梟ハオシャオ様っておいくつなんですかね」


 藍星が苦笑すれば、皓梟はシャクをかざして雅やかに微笑んだ。


「ふふ、いくつにみえるかや?」


「あ、そういうことを尋ねる御方のご年齢だったら、察しがつきます」


 ふたりが賑やかに喋っているあいだ、慧玲フェイリンは篭を抱き締め、考えごとをしていた。

 この身を侵す毒を喰らう毒は麒麟キリンの骸から抜け、慧玲の胸に根を張った。ならば、解毒している時に浮かびあがる刺青いれずみのような紋様は孔雀ではなく、鳳凰紋ほうおうもんだと考えるべきだ。麒麟キリンの魂だけが死なず、この身に宿る――そんなことがあるのだろうか。


「麒麟が人の身にりつくことはありますか?」


 脈絡なく尋ねてしまったが、皓梟ハオシャオはなにかを察したのか、真剣な顔になる。


「ふむ。聴いたことはない。だが、調査が進めば、そちが欲する真実につながるかもしれぬな」


「その時は是非にご教授たまわりたくお願いいたします」


「ほほ、よかろう。そちは索盟ソォモンの娘だ。旧友きゅうゆうの娘ならば、わぬにとりても愛らしき孫のようなものよ」


「有難き御言葉です」


 慧玲フェイリンは厚意に畏まって頭をさげたが、後ろでは藍星が「孫? ……孫」と眼をまるくしていた。想像していたより皓梟が歳を重ねていることに動揺している。

 皓梟は宦官たちを連れて、さきに進んでいった。


「でも、そっか。花が咲くってことは実ができるんですね。あ、これ、昨年の実でしょうか」


「どれですか」


 覗きこむ。稲や麦の穂に似た実だ。だが、実の一部が黒変して、伸びきっていた。後宮の風水も衰えているせいだろうか。


「これはまずそうですね」


「病変だとすれば、毒になっている危険があります。触れないほうがよさそうですね」


 その時だ。


「食医様、こちらにおられましたか」


 枯れた笹を踏んで、こちらにむかってきたものがいた。錦糸にしきいとが施された女官服は秋宮の制服だ。だが、彼女は女官というには幼すぎた。背が低いのもあってか、八歳前後にみえる。

 女官はわずかな曇りもない笑顔でかけ寄ってきた。


「診察をお願いしたいのですが、秋の季宮ときみやまできていただいてもよろしいでしょうか」


「承知いたしました。いつ頃に伺えばよいでしょうか」


 緊張感のない声からして、急を要する患者ではないだろう。そう考えたのだが、女官は笑顔を振りまきながら、とんでもないことをいった。


「できれば、いまからだと助かります。昨晩から吐き続けていて、さきほどから泡を吹いておられるくらいなので」


「え」


 泡を吹いているとなれば、重症ではないか。緊張感のない女官に戸惑いながら「ただちに」と頭をさげた。

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