幕間 毒師、媚薬を盛られる

花花ファファ様、やっぱり、おやめになられたほうが」


 春の宮――鏡にむかって紅を施す妃嬪の背後で、背の低い女官がか細い声をあげた。


「いやよ、わたくしは手に入れるときめたら、かならず手にいれるの。わたくしは豪商たるワン家の姑娘なのよ、我慢なんかできないわ」


 後宮にあがったときは老けた皇帝に落胆したが、皇帝が崩御したあと、新たにあらわれた皇子おうじは息をのむほどの美形だった。艶やかな髪をひとつに結わえ、高貴な紫の眼をして唇に絶えず微笑をうかべた好青年――確か、ヂェンというのだったか。

 振りむいた彼と視線が重なったとき、花花は一瞬にして恋に落ちた。


「彼はわたくしの皇子様おうじさまなのよ」


 恋するおとめはうっとりとつぶやき、工芸茶が入った壺をこつんと指さきで軽く弾いた。だが、浮かれるあるじとは違い、女官は顔色が悪かった。それもそのはず、花花が持っている工芸茶には、とある薬が隠されているのだ。


「だからといって、次期皇帝に媚薬を盛るなんて――」


「あら、恋の媚薬おくすりよ。毒を盛るみたいにいわないでちょうだい」


「ですが、このあいだは皇太子様と喋っておられたというだけで、食医の姑娘が持ってきた薬の茶葉をわざと濡らして、かびさせたではありませんか」


「ええ、かびた茶葉を納めたと問題になっていたわね。笞刑ちけいに処されたとか。いいざまだったわ。渾沌こんとん姑娘むすめの分際でわたくしの皇子様を奪おうなんて。死刑になればよかったのに」


 女官は青ざめてうつむいた。ぎゅっと袖に隠したこぶしを震わせる。


「私、もうこれいじょうは花花様の御命令には」


「なによ、お父様が借金を肩がわりしてあげたのをわすれたの?」


 女官が息をのみ、縮こまる。それを持ちだされては、女官は従うほかにない。

 花花は最後にひとつ、額に花鈿かでんをつけた。結いあげた髪にはこれでもかとばかりにかんざしが挿されている。身動きするたびに歩揺ほようがじゃらじゃらと賑やかな調べを奏でた。


「さ、お茶会にむかいましょう? 皇子様とふたりきりの、ね」


 ワン家の力をつかえば、皇子を茶会に呼びだすのもかんたんだった。なにせ、王家は豪商で、官吏たちともつながりが強い。

 飾りたてられた襦裙きもののすそをひるがえして、花花は後宮の茶室にむかった。



      ………………



「待たせてしまったかな」


 花花の愛しい皇子様――もとい鴆 《ヂェン》は約束の時刻からわずかに後れて、茶室にやってきた。


「いえ、愛しい殿方とのがたを待つ時間は、女にとってこれいじょうにない幸せですもの」


「それはよかった」


 鴆は銀刺繍の施された紫の絹を身に纏い、銀製の髪飾りをつけている。あいかわらず、都中を捜しても比肩する男がいないほどに秀麗な風貌だ。重ねて物腰穏やかで皇族らしい気品を漂わせている。

 ぜったいに欲しい。花花がぽってりと紅の施された唇を舐める。


「いま、お茶を淹れさせていただきますわ。とてもめずらしい工芸茶がございますの」

 

 あらかじめ工芸茶の入れられた茶杯に急須から湯をそそぐ。ちょうど飲み頃になると茶葉が花のようにひらいた。


「どうぞ」


 鴆に渡した花には媚薬が隠されている。ひとくち飲めば、男がたちまち女に跪くほどに強力な媚薬だとか。

 鴆は茉莉花まつりかの香りを確かめてから、ゆっくりと茶杯を口に運ぶ――花花は胸のうちで歓喜した。


 これで理想の皇子様が手に入る――――


「……うん、素晴らしい茶だね」


「ふふ、有難き御言葉ですわ」


 花花も続けて、茶杯ちゃはいに唇を浸す。

 媚薬というのはどれくらい経ったら効いてくるものなのだろうか。強い媚薬ということは飲んだらすぐにでも効力があらわれるのだろうか。だとしたら嬉しいのだけれど。

 こくり。茉莉花茶が喉から落ちたそのとたん、花花の肌がごうと燃えあがった。


「な、に……これ」


 媚薬。なんてものではなかった。

 熱い、痛い――神経をやすりでけずられているような。あまりの劇痛に襲われて、すわっていられることもできずに花花は倚子から崩れおちた。


「ああ、やっぱり、毒だったか」


 鴆はさきほどまでの穏やかな微笑を掻きけして、ぞっとするくらいに冷徹な眼をしていた。


「あやしいとおもって、茶杯をすりかえておいたんだよ」


 いったい、いつのまにそんなことを。


「ち、違う、わ……こ、これは……薬よ、とても高値こうじきな媚薬で……」


「おなじことだよ。分量、調合を誤れば、薬も毒に転ずる」


 興奮も程度を過ぎれば命にかかわり、感度もあがりすぎれば燃えるような痛みにしかならない。


「そ、そんなの、し、知らなかった……の、わ、わた、わたし」


 言葉を発するだけでも、舌も喉も焼けつくように痛かった。呼吸をすることもつらい。鴆は這いずる花花の眼前に靴底を落とす。かつんという空気の震えだけでも肌を幾千の針で刺されたように痛んだ。

 涙目で振り仰げば、鴆が微かに口の端をあげていた。微笑んでいる――? 


「助けてあげようか」


 奇麗な微笑を湛えて鴆が救いの手を差し伸べる。

 ああ、やっぱり、彼は優しいひとだ。花花は安堵して、彼に縋りつこうとした。 


「た、助けて――――」


 そのときだ。鴆の袖から、するすると糸を垂らして蜘蛛がさがってきた。紫の蜘蛛だ。花花が悲鳴をあげるまもなく、蜘蛛は助けをもとめて伸ばされた花花の手に牙を剥いた。

 


      ………………



「こちらが花花ファファの宮から押収された媚薬になります。曼陀羅華まんだらげを含む毒物が検出されました。大きな急須にいれて飲めば致死毒にはならないはずですが、茶杯を満たす程度の湯では毒を希釈することができなかったのだと推察されます」


「御苦労」


 鴆は部下から媚薬入りの工芸茶を預かる。

 風が吹き、梅がはらはらと舞った。廻廊の勾欄てすりに腰かけて鴆は小さな壺にはいった工芸茶を弄ぶ。


 ワン花花ファファの死は過失による事故として処理された。皇太子に強い毒性のある媚薬を盛ろうとして誤ってみずからの茶に毒をいれ、命を落としたということになっている。

 まさか毒師に毒を盛ろうとしたなんて想像だにしていなかったはずだ。


「稚拙な毒はともかく、彼女に罪をかぶせた報いは命で償ってもらわないとね」


 それにしても、媚薬か。

 

「彼女に飲ませたら、どうなるかな」


 緑の眼が潤み、蕩けて、毒を喀かぬようにとかみ締めてきた唇がだらしなくゆるみ――薬でなければと張りつめていたものがぜんぶ壊れて。

 接吻ひとつで底まで溺れるようになれば。

 そのときならば、胸のなかにとじこめ続けてきた「助けて」も「つらい」も言葉にだせるだろうか。


 は、と鴆は自嘲するように乾いた嗤いを喀いた。


「くだらないな」


 こんな劣悪な毒で、彼女を壊せるものか。


「あんたを壊すのは僕の毒だ」


 壺のなかにつまっていた工芸茶を篝火に投げこむ。

 茉莉花のあまやかな香を漂わせた烟があがった。篝火に背をむけ、鴆はほの昏い宮廷のなかへと還っていく。宮廷の屋頂やねにかかった月が媚薬に酔ったようにかすんで、どろりと蕩けた。


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