幕間 梅の舞姫の秘めごと

 梅は春不知はるしらずと語られる。

 春の訪れを報せる花でありながら、残雪の凍える如月きさらぎに咲き、桜咲く卯月うづきを迎えることもなく散りこぼれるからだ。

 

 リー雪梅シュエメイ

 華の舞姫と称される彼女もまた、春を知らずしてかおりたつ華として齢二十まで咲き続けてきた。

 雪梅のまわりには男たちが蝶のように群れていたが、そのかぐわしい莟が咲き綻ぶことはなかった。

 だが、たった一度だけ、彼女は恋に明けそめたことがある。




            ◇



 清明せいめい花信風かしんふうを身にまとい、芸妓たちが円舞する。

 雅やかな演舞は貴人の集う卯月うづきの宴に見事なまでに花を添えていた。散りいそぐ桜のはなびらとたわむれる錦の魚がごとく、水袖をはためかせて跳ねあがる。総勢三十もの舞妓ぶぎを従え、先陣をきるように踊るのは華の舞姫――リー雪梅シュエメイだ。

 彼女の舞は枯れた梅枝うめがえにも花を咲かせると称えられるだけあって、他の追随を許さぬ華麗さだった。


「いやはや、実に華やかな舞だな。これだけの舞妓ぶぎが揃っていても、彼女にしか視線がいかぬほどだ」


「さすがは華の舞姫といったところか」


 貴人たちが感嘆の声をあげるなか、浮かぬ顔をした士族の男がさかずきをあおっていた。

 通りがかった宦官が、微かに眉をひそめる。士族の男は宦官の視線には気づかず、舌打ちをしてつぶやいた。


「くそ、なぜ、失態をおかさぬのだ。これでは、華の舞姫がいっそうに陛下の御歓心を得るばかりではないか……」


 そのときだ。舞妓ぶぎのひとりがつまづき、転びかけた。これまでただひとり、雪梅シュエメイおくれることなく舞い続けていた舞妓だ。

 咄嗟に動いたのは雪梅だった。舞妓の腕をつかみ、さながらそういう振りつけだったように彼女の腰を抱き寄せつつ廻る。優雅に。華麗に。


 観客は歓声をあげ、総立ちになって喝采する。

 今度こそ士族の男は仏頂面になり、叩きつけるように杯をおいた。


 斯くして、華の舞台は大好評のうちに幕をおろした。



      ………………



「申し訳ございませんでした、雪梅様」


 舞が終わり、雪梅が髪を結いなおし、襦裙いしょうを着替えていたところ、転倒した舞妓ぶぎが控え室まであやまりにきた。舞妓は地に額をこすりつけ、哀れなほどに青ざめている。雪梅を怒らせてしまい、舞台にあがれなくなった舞妓ぶぎは後を絶たないという。

 雪梅はかたちのよい眉をつんと跳ねあげた。


「とんでもない失態だったわね。この卯月の宴は大陸各地からまつりごとの要人が集まっているの、そんな大舞台で舞妓ぶぎが転倒するだなんてあってはならないことよ」


くつが壊れてしまって、その」


「言い訳は聴きたくないわ」


 雪梅はすがりつこうとする舞妓を追い払うように袖を振る。


「いいこと、壊れやすい沓ならば壊れないように舞うの。舞姫がくつを選んではいけないわ。針を踏んでも華やかに。焼けたくつでも軽やかに。それが舞姫というものよ。これからはそのつもりで舞うことね」

 

「わ、わたしはこれからもご一緒に踊らせていただけるのですか。わたし、てっきりもう、舞台にはあがれなくなるのだと」


 舞妓が命拾いしたとばかりに声をあげ、「ありがとうございます」と涙をこぼした。雪梅はため息をつく。


「舞いたいんでしょう? だったら舞えばいいじゃないの――ほら、泣いている暇があったら、練習していらっしゃい」


「は、はい」


 舞妓は慌てて袖で濡れた頬を拭い、去っていった。雪梅はやっと息をつく。だが、いれ違いに控え室へとやってきたものがいた。


「偉そうでわがままなだけの小姐様おじょうさまかとおもっていたら、意外にいいところがあるんですね」


 宦官だ。雪梅が一瞬、視線を奪われるほどに端麗な風貌をしていた。宦官服ではなく、女物の襦裙きものに袖を通していても、あるいはそのほうが違和感のないようなかんばせである。

 ただし、とんでもなく失礼だ。

 

「なによ、それ、不躾ぶしつけにも程があるんじゃなくって?」


「華の舞姫様は気に喰わない舞妓ぶきがいると、二度と舞台にあがれないよう、掃除係に落とす――なんて噂を聴いていたので」


 雪梅自身も聴き飽きるほどに聴かされてきた噂だ。


「いっておくけどね、わたくしは舞妓を追放したことなんかないわよ、ちょっと叱ったら「ついていけない」とかいって勝手に辞めていくだけ」


 被害者面されてはたまったものではない。

 宦官はふっと微笑んで「なるほど、おおかた察しがつきました」といったあと、袖から壊れた革製の靴を取りだした。


「この沓、わざと演舞中に壊れるようなものを渡されていたんですよ」


「知っていたわ。ほかの舞妓ぶぎもわかっていたはずよ。だから、くつを壊さないようにとするあまり、舞の振りつけがおくれていた。私の舞についてきていたのは転倒した彼女だけよ」


 それが仇になったわけだが――


「どうせ、私の失脚を望んでいたものがいたのでしょう」


 宴で舞う時に衣服を指定されるのはめずらしいことではない。

 だが、沓まで、というのはめったにないことだ。その段階で沓に細工がされていること、舞妓が醜態をさらして華の舞姫が失脚することを望んでいるものがいることは察しがついていた。


「観客のなかにこの宴を主催した男がいました。宴の前座として歌を披露した妃の親族です。おおかた、舞を台無しにして、娘である歌姫が皇帝の眼にとまるようにしたかったのでしょうね。……動揺されないのですか」


「慣れているの」


 宦官は暫し考えこんだあと、雪梅の側まできて膝をついた。


御足おみあしをみせていただけますか」


「どうして」


「御怪我をなさっているでしょう?」


 ぴりっと雪梅の表情に緊張が走った。

 

「私の舞が乱れていたとでも言いたいのかしら」


「いいえ、舞は完璧に美しかった」


「だったら」


「舞台を降りたあと、控え室にむかうときの歩きかたがいつもと違いましたので」


「……そう」


 気づかれるとはおもわなかった。

 こちらに、とうながされ、宦官の膝に雪梅は足を乗せた。くつを脱がされる。血に濡れたあしが現れた。

 宦官が言葉を失った。

 沓擦くつずれ、なんてものではなかった。ずたずたに裂けている。


「踊っているうちに割れた陶器の破片が飛びだすようになっていたの。幼稚ないやがらせだわ」


「告訴するべきです」


 宦官の目に怒りがよぎる。


「できないわ。舞妓ぶぎにできるのは黙って完璧に舞うことだけ」


 雪梅の眼差しは静かで、透徹としていた。諦めている、というよりは受けいれている。舞台は、女の戦場いくさばだと。


 宦官は酷く双眸そうぼうをゆがめ、雪梅の傷だらけのあしをつかむ。


「あなたは、この足で、舞っておられたんですか。……こんな」


 哀れまれたくはない。雪梅が彼の腕を振りほどこうとしたのがさきか、宦官はぽつりとこぼした。


「ああ、春不知うめ、か」

 

 春風のなかではなく、雪のまざった寒風のなかで咲き誇る――それが梅だ。桜とは違う――宦官は血濡れたつまさきに唇を寄せ、敬意を払うように接吻を落とす。


「これまでの失礼をお許しください、小姐おじょうさま。あなたほどの舞姫はおられません。春不知うめの異称にふさわしい御方もまた」


 雪梅に平伏する男はこれまでもいた。それこそ掃いて捨てるほどに。宮廷一と謳われる華の舞姫の"蜜"を欲して。或いはリー家の権威に盲従して。

 だが、彼は違う――雪梅シュエメイという姑娘おんなのあり様に跪いている。

 そう理解すると同時に鼓動が酷くはねた。呼吸がふるえる、素肌が痺れる、花が綻ぶように。

 それが宦官、殷春イェンチュンとの出逢いだった。



      ………………



 咲かぬ花でありたいとおもっていた。

 だが、恋は緩やかに梅の莟を咲かせた。ふたりは徐々に惹かれあい、恋仲となった。雪梅は後宮にいる身だ。殷春とは隠れて逢瀬を重ねた。彼と過ごした春から冬にかけてはとても幸せだった。

 

 翌春、梅の季節に皇帝の御渡りがあった。

 あれほどまでに望み続けてきた皇帝の情けは無常にも雪梅の心を凍てつかせた。花が散った翌晩、殷春がこっそりと雪梅の宮へと訪れた。

 

 窓べにたたずんでいた雪梅は殷春を振りかえり、ぽつりとつぶやいた。


「御渡りがあったの」


 殷春は一瞬だけ、酷く傷ついた顔をした。続けて無理やりに微笑んで、彼は頭をさげる。


「……おめでとうございます」

 

 有り触れた言葉だ――女官たちからも散々祝われた。雪梅は紅に飾られた唇をゆがめる。


 わかっている。彼にはそういうほかにはないのだ。

 だが、殷春は表情を陰らせ、かぶりを振った。強引に雪梅の腕をつかみ、殷春は窓の飾り枠に身を隠して彼女を強く抱き締めた。


「――――すみません、喜ばしいことだとはわかっています。わかっているんです。ですが、どうしても俺には喜べません」


 雪梅の瞳から、ほつりと梅がこぼれるように涙が落ちた。


 そうだ。雪梅は彼にそういってほしかったのだ。

 殷春は雪梅の頬にこぼれた涙に接吻せっぷんしてから、唇を重ねた。啄むような、触れるだけの接吻くちづけが段々と深くなっていく。互いの愛を確かめあうように接吻をかわしてから、殷春はつぶやいた。


「今生では結ばれないのならば、いっそ――」


 雪梅が息をのむ。


「俺は、この愛に命を賭けられます。ですが、俺と貴女では抱えているものが違いすぎる。俺は宦官で、一族からはすでに絶縁されています。でもあなたはリー家の小姐れいじょうで皇帝の寵愛を得るべく後宮にあがった身です」


 雪梅の心はきまっていた。

 またひとつこぼれた涙を拭い、彼女は婉然と微笑む。


「愛に命を賭けずして、なにがおんなよ」


 殷春は魅了されたように瞳をみひらき、彼女の唇に再度、接吻くちづけを落とした。


「俺のためになにもかもを捨ててくださるのですか」


「愛しき季節に咲くのが華でしょう。春風に吹かれて咲こうと、霜降るなかで咲き誇ろうと。それは華が選ぶことよ」


 そうして梅が選ぶのは忘れ霜の如月だ。

 

 ふたりは愛を誓いあい「朔の晩、春の庭で最も麗しき梅のたもとで」と約束を結んだ。雪梅は宮を抜けだして梅のもとにむかった。


 だが、そこに愛しいひとはこなかった。


(逢うべきではなかった。梅は、春を知ってはならなかったのだわ)


 裏切られた。怨んだこともある。悔やんだこともあった。

 だが、雪梅は後に"とある奇病"にかかり、殷春が別の梅の根かたでち続けていたことを知ることになった。そして彼がひとり、命を絶ったこともまた。


わたくしの春はふたたびにはめぐらない)


 だが、舞姫はただ一度きりの春を抱き締め、永遠のものとした。



      ………………



「まだ梅は咲きませんね」


 梅の枝を振り仰ぎ、雪梅つきの女官である小鈴が眉をさげる。


 あれから季節が循り、また如月が訪れていた。

 雪梅は睦月むつきの中旬から毎朝この白い八重梅のもとにかよい、梅が綻ぶのを俟ち続けている。


「いいえ、ごらんなさい。ひとつだけ、咲いているわ」


 根かたに延びた枝の先端に白い梅花ばいかが咲いていた。ほんとうにちいさな。真珠ほどの花がひとつだけ。


 名残の霜雪そうせつかと想うほどに小さな春。


 だが、雪梅は微笑んだ。


「…………愛しているわ、いつまでも」


 春不知はるしらずなんて、嘘だ。

 梅にとっては、この指先の凍る、息もまだ白い季節が"春"だというだけ。風雪にたたかれても霜に凍てついても、咲き綻んだことを後悔はしない。

 だからどうか。

 他生があるのならば、いつかふたたびに梅のもとで――――



 微笑する舞姫の袖さきでもうひとつ、梅の莟が寄り添うように弾けた。



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 作画は「そ太郎」様です!

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 またそ太郎様(@sotaro_so_)の公式Xでは 連載開始まで可愛らしいイラストにてカウントダウンがあるとか……!? ぜひともお楽しみに!

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