幕間 眠れぬ姑娘に毒の接吻を

 静かな晩だった。

 蜘蛛が笹の葉をゆらす微かな音さえも聴こえそうなほど、離舎のまわりは静まりかえっていた。格子のついたまる窓をすりぬけた月影が房室のなかに落ち、眠り続ける姑娘むすめの瞼をあえかに照らしている。

 姑娘の下瞼を縁取っているのはまつげの影ではなく、隈だ。どれだけ眠りをけずって、薬を造り続けていたのか、考えるだけでもヂェンはため息をつきたくなる。暫しそれを取りとめもなく眺めていた鴆はやがて緩やかに身を起こし、臥榻しんだいに腰かけた。

 毒でしかない男の側でしか、眠れない姑娘。彼女の側にいると胸の底で風が逆まく。愛だとか、恋だとか。そういうたぐいのものではなかった。

 敢えていうならば、毒だ。


「っ……」


 そのときだ。慧玲が微かに息をつまらせた。なにかから逃れようとするように腕を伸ばして、敷絹しきふを掻きみだす。

 彼女には時々こういうことがあった。いやな夢にうなされて、苦しむことが。毒に侵された父親の咆哮、薬を怨んだ母親の呪詛。そうしたものが彼女をさいなめ、いかなる毒よりも酷く心を蝕む――だから、眠りたくないといっていたことを想いだす。


「……慧玲フェイリン、慧玲」


 声をかけながら揺さぶってみたが、彼女はいっこうに眼をさまさない。かわりに吹きこぼれたなみだが頬を濡らした。

 おそらくは夢の底まで、意識が落ちているのだろう。彼女の底まで、みずからの声が響かないことが鴆はたまらなく悔しく、いらだちを滲ませた。


「起きなよ」


 か細い悲鳴のかけらのような吐息を洩らす唇を、接吻くちづけで塞ぐ。

 うなされているため、舌を侵入させるのは易かった。息を絡め、悲鳴を根こそぎ喰らいつくす。


「っふ……」


 うまく呼吸ができないのか、のけぞった喉が溺れているかのようにふるえる。

 毒に溺れればいいとばかりに鴆はなおも接吻を続けた。けものが獲物の喉をかんで息の根を絶つのに似た、捕食の意を覗かせた接吻だ。舌の先端をとがらせて上顎の裏をなぞれば、華奢な背がぴんと微かに跳ねる。


「……っおまえ、なに、して……るの」


 さすがに起きたらしく、緑の眼がひらかれた。


「は……なんだとおもう」


 意地悪く尋ねかえしてやれば、慧玲は視線を彷徨わせたあと、みずからの頬にこぼれていたなみだに触れ、おおよそ察したのか、ため息をついた。


「また、うなされていたのね。……だからって」


「やさしく起こしてもらえるとおもったのかな、残念だったね」


 声をかけても起きなかった、とはいわなかった。

 再度組みふせ、かみつくように唇を奪う。


「もう、起きた、のに」


 息も絶え絶えに不満をいわれる。毒がまわって痺れはじめているのか、鴆の胸を押しかえそうとする腕にはちからがなかった。


「……だからだよ。もういちど、眠りにおちろ。今度は夢なんかみないくらい、底まで落としてあげるよ」


 細い指で絡めとるように慧玲の髪を掻きあげ、耳を塞いだ。互いの毒がまざりあう響きだけが、聴こえるように。地獄の底まで沈んで、彼女をさいなめる呪詛など届かなくなるまで。


 次第に緑眼りょくがんが濁り、ことんと気絶するように意識が落ちた。

 唇をはなす。細い銀の糸が名残惜しげにふたりの唇を繋ぎ、ふつりとほどけた。それはどこか、蜘蛛の吐く糸に似ていた。


「おやすみ」


 その声だけは、これまでの喰らうような接吻からは想像もつかないほどにやさしかった。



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