幕間 薬師と毒師の小咄

「小説家になろう」にて投稿していた「後宮食医の薬膳帖 廃姫は毒を喰らいて薬となす」発売祝いSSです!


 第五部終了後の話になっています。慧玲と鴆の毒ラブ振りをお楽しみいただければ幸いです。


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 後宮では香りを身につけるのがはやっていた。

 花の香に香木の香。華やかな絹に香炉で烟をたきつけたり、なめらかな肌に香油をつけたり、髪にふわりとまとわせたり。もとから花の香りが絶えることのない後宮で、さまざまな香が錯綜して、瞳を瞑っていても百花繚乱を想わせる。


「あれ、慧玲様、なんだか香りがしますね」


 朝いちばんに離舎を訪れた藍星がそんなことを言いだした。慧玲は朝のお茶を淹れながら、「そうでしょうか」と瞬きをする。


「もしかして、後宮でいま、話題になっている香ですか?」

「いえ、とくに香は身にまとっていませんよ。調薬の時に妨げになりますので」


 蔡慧玲は香りをまとうことを好まない。

 それに漢方の生薬にはにおいが強いものも多く、せっかくかぐわしい香を身につけていても、調薬をしているうちに薬のにおいに上書きされてしまうだろうとおもっていた。


「薬のにおいではありませんか?」


 離舎の房室にも箪笥にも服にも、とうに薬のにおいはしみついている。


「うーん」


 藍星は納得できないのか、慧玲の袖をくんくんと嗅ぐ。犬みたいだ。


「なんか、嗅いだことがある香りなんですよね。白檀に似てて、でも違って、薄荷みたいな清涼感があって……悪い香りではないんですが、こう、背筋がぞっとするといいますか……あ」


 想いだしたとばかりに藍星が声をあげた。


「例の風水師……じゃなかった、皇太子様が通り掛かった時にする香りと一緒です」


 慧玲は想わず飲みかけていたお茶で噎せそうになる。


「そ、そうですか。あれも薬草の煙草葉ですから、なにか似た漢方を調薬したときについたのかもしれません」


「漢方ですか……」


 慌てて言い訳をする。藍星は納得したのか、「うーん、そうなんですね」と茶を啜る。愛想笑いでごまかしながら、慧玲は胸のうちで想う。


(あいつがあんなことをしたせいで)



            ◇



 昨晩のことだ。

 妃たちからの依頼が殺到していて離舎に帰るのが日を跨いでしまった。藍星には黄昏(夜八時)には帰ってもらい、後宮の庖房を借りて夜半過ぎ(夜十一時)まで調薬をした。毒疫に蝕まれていた夏宮の妃妾を解毒して、ようやく帰路についたところ、離舎には鴆がいた。


「晩かったね、後宮食医さん」


 鴆は臥房のまる窓に腰かけ、暇を紛らわせるように烟管を吹かしていた。

 寺院に焚かれている線香とはまったく違った高級な香木の馨香けいこうが漂っている。彼が服のなかにひそませる毒蟲の毒が、彼の身をおびやかさないようにするための煙草だ。


「なんでいるの」


「閂がかかっていなかったからね」


 そもそも離舎には閂がない。その昔、先帝に壊されて、それきり修理もしていなかった。

 慧玲は諦めてため息をつく。


「ずいぶんと繁盛しているじゃないか。朝から晩まで、後宮をかけまわって」


「そうね、妃妾がたが信頼を寄せてくれるようになったおかげで、早期に患者の診察ができるようになったのは有難いことだとおもってる。薬がもとめられることそのものは喜ばしいことではないけれど」


 喋りながら、慧玲は百味箪笥のなかにある生薬の確認をする。在庫はまだあるが、さきほどの妃妾が回復するまで七日ほど投薬を続けなければならないことを考えれば、補充を頼んだほうがよさそうだ。分量などを計算していると、不意に後ろから袖をつかまれる。


「信頼、か。便利な言葉だね」


 鴆がせせら嗤うように眸をゆがませる。

 ぐいとひき寄せられた。


「そのうち、後宮中の妃妾たちが――いや、或いは宮廷のものまでもが貴女に「薬をくれ」「助けてくれ」と頼ってくるんだろうね。ひとつの薬を造るのに貴女がどれだけ神経をすり減らせて身をけずっているのか、想像もしないでさ」


 男のものとは想えないほどに細い指さきが、疲れの滲む頬に触れてから、緑眼を縁どるくまをなぞる。


「それは、患者には知る必要のないことよ」


「……そうだね」


 鴆は烟管の紫烟しえんをふっと吹きかけてきた。

 烟をまともに吸いこんで、慧玲が息をつまらせる。ただの煙草と違って害のあるものではないが、眼にしみて微かに眩暈がした。なれていないせいか、あるいは疲れていたからか。


「どういうつもり」


「さあ、なんだとおもう?」


 鴆はまた烟管をって、烟を吹きつけてきた。今度は羽織の袖に香をたきつけるように。


襦裙きものににおいがつくじゃない」

「つけるためにやってるんだよ。ちょっとした蟲除けだからね」


 鴆は口の端を持ちあげ、嗤う。楽しいのか、楽しくないのか、ちっともわからない。


「ねぇ、まだやらないといけないことがあるのだけれど」


「へえ、お疲れ様だね。でも、僕には関係ない」


 猫に似ている、と慧玲は思った。こちらの都合など考えずにたわむれてくる気ままないきもの。そういえば、彼の双眸ひとみは猫のかたちをしている。


「ほら、今晩は月がきれいだよ、おいで」


 誘われるように一緒に窓に腰掛けて、月を振り仰ぐ。まだまだ仕事があるのにとため息をつきながら、日頃から慌ただしい心が何故か穏やかになっていくのだから、よけいに始末が悪かった。


「上弦の月だったのね。……知らなかった」


 烟を吸いこんで、彼女はひとつ、息をついだ。

 



            ◇



「貴女、その香り……」


 産後の検診で雪梅嬪の脈を取ったとき、ふと彼女が眉の端をあげた。

 彼女は香りのものを好む。嗅ぎなれない香に目敏く気づくところまでは予想できていたが、雪梅嬪は思いも寄らないことを言いだした。 


「殿方の残り香でしょう?」


「な……」


 雪梅嬪がいうとやけに艶めかしく、戸惑いを隠しきれなかった。


「わかるわよ。女の纏う香りが変わったら、それは殿方のせいだもの」


 言い訳、というよりは釈明をする暇もなく、雪梅嬪は嬉しそうに喋る。


「でも、気をつけなさいよ。残り香をわざとつける男はきまって執念深いから。蜘蛛みたいにね」


 思わず言葉をつまらせる。


「でも」


 雪梅嬪は紅梅の唇を綻ばせる。


「貴女にはそれくらいのほうがちょうどいいのかもね。だって、絡めとられるくらいじゃないと、ふっと何処かにいってしまいそうだもの」


「どういうこと、ですか?」


「そういうことよ」


 雪梅嬪はくすくすと笑いながら、「でも、男なんかに貴女をとられるのはなんだか、悔しいのよね」と艶のある双眸を弓なりにする。

 雪梅に袖をまくりあげられ、ひじの内側に練り香をつけられる。ふわりと微かにすずらんの香りが漂ってきた。


「あ、あの……」


「貴女にぴったりの香りよ」


 雪梅は嬉しそうに微笑んだ。

 窓から風が吹きこんで、ふたつの香りが入りまざる。だが、それも昼を過ぎる頃には薬のにおいに塗りつぶされることだろう。



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 いつもご愛読くださる読者様に心から御礼申しあげます。


 すでに「ドラドラふらっと♭」さまでのコミカライズも確約しております。


 第六部の連載もじきに再開したいとおもい、執筆を進めておりますので、引き続き応援いただければ幸いでございます。

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