第六部《風の毒》は吹きすさぶ

2‐1如月に風邪きたる

 後宮に春の風が吹いた。

 だが、待ちに待った季節の風が連れてきたものは、綻びだす梅の香ばかりではなかった。

 

 春の宮でまたひとつ、くしゃみがあがった。

 ほかの殿舎では女官たちが頻りにせきをしてる。


「起きたら、喉がいがいがとしたので、酷くならないうちに診ていただきたくて」

「喉がずいぶんと腫れておられますね」


 後宮食医であるツァィ慧玲フェイリンは、妃たちの診察をするため、春の宮を訪れていた。

 舌診ぜっしんを受けているのはヤオ李紗リィシャだ。李紗は昨年、様々な経緯を経てしゅんから退き、妃に続くひんという階級になった。


風邪ふうじゃにあてられたものとおもわれます。無理もありません。暖かくなったり寒くなったりと気候の落ちつかない日が続いておりますから」


 後宮で、とくに春の宮では昨今、例年にはないほど感冒かぜがはやっていた。

 李紗リィシャがまたひとつ、咳をする。検温して発熱にはいたっていないのを確認してから、慧玲は宮の庖房くりやを借りた。


藍星ランシン


 慧玲フェイリンは側についていた女官に声をかけた。

 ミン藍星ランシンは慧玲につかえる女官だ。明朗な姑娘むすめで、恩をけてから彼女に忠誠を誓っている。


「まずは、蓮根と生姜をすりおろしていただけますか」


「まかせてください。って、あれ、なんだか、ふつうの食材ですね?」


 藍星ランシンはやる気満々に袖まくりをしてから、意外そうに瞳をしばたかせる。


「これまでだと、薬をつくるとなれば、蟬の抜殻ぬけがらを挽いたり毒のきのこを煮こぼしたり、みたこともないような硬くてぬめぬめの果実を割ったりするところからだったのに」


「これは毒疫どくえきではありませんからね」


 特殊な食材をつかわずとも、薬になる。


 蓮根はいくつかは花のかたちに飾りぎりして、残ったものをすりおろす。このとき、皮を剥かないのが肝要だ。荒くならないよう、布地につつんでしぼる。これを鍋にいれて、煮たたないように気をつけながらまぜ続けると徐々にとろみがついてきた。

 味を調えてから葱をちらし、生姜をしぼる。


「調いましたね、李紗リィシャひんのもとに参りましょう」


 椀にいれてから、李紗のもとに運ぶ。


「こちら、蓮根と生姜の薬膳羹スープでございます」


 暖かな湯気がほこほことあがる椀を覗きこんで、李紗が嬉しそうに「まあ」と手を重ねて微笑する。椀のなかでは、梅のかたちをした蓮根がふわふわと舞っていた。


「……ふうふぅ……ん、素朴ですが、どこか懐かしい味わいで……ふふっ、おいし

い」


 とろんと李紗が瞳を潤ませて、息をついた。


「なんだか、喉のいたみがやわらいできたような。ほかほかと温まって、朝から続いていた寒けがなくなりました」


 言葉どおり、先程まで青ざめていた李紗の頬が微かに紅潮していた。


「これは、どのようなお薬なのですか?」


「まずは生姜です。生姜には身体を温め、じんわりと発汗を促して、風邪を発散する効能があります。続けて蓮根をすりおろしたものは、喉の痛みをやわらげ、咳をとめる薬として民間でも親しまれてきました。最後に葱ですが、葱は風邪にたいへん効果のある漢方のひとつで、季節の移りめに低下してしまった免疫を高めてくれます」


 慧玲はよどみなく語る。白澤はくたくの書をひらくまでもない。


「特別なものをつかっているわけではないのに、こんなに効能があらわれるなんて、さすがは食医さんですね」


 李紗が感嘆する。


風邪ふうじゃは毒と違って、すぐには絶てません。朝夕にはかならずこちらを飲んでいただき、感冒かぜが酷くならないうちに追いだしてしまいましょう」


 その時だ、診察中の房室へやに踏みこんできたものがいた。


「食医はまだ、いるか?」


 假面具かめんをつけた大柄な宦官だった。彼は卦狼グァランという。ほんとうならば、声もかけずに嬪の房室へやに入室するのはたいへんな非礼にあたるが、李紗が彼を咎めることはない。なぜならば、彼は李紗が愛し、李紗を愛する男だからだ。


「春妃からのつかいの命婦めいふが表にきてる。春妃の女官が酷い熱をだして、昨晩から寝こんでいるらしい。ひめさんの診察が終わったら、そっちにいってやってくれ」


「承知いたしました」


 卦狼グァランは胡乱な三白眼さんぱくがん慧玲フェイリンを睨むように視る。

 解ってはいるのだ。彼は眼つきが悪いだけで、別に睨みつけているわけではないと。だが、こうも視線をそそがれては落ちつかない。


「……あの、なにか、ありましたか?」


「いいや、すっかりと後宮食医になったもんだと思ってな」


「私は、もとから後宮食医ですが」


 奇妙なことをいわれて、瞬きを繰りかえす。


「んなことは知ってる」


 卦狼は棘髪おどろがみを掻きまわして、思っていることが伝わらないことに苛だつような素振りをする。


「ずいぶんと頼られてるんだなってことだよ。いまとなっちゃ、表だって渾沌の姑娘だと疎んじるやつはめったにいないだろ」


 つまりは、裏ではまだ彼女を謗り、疎んじているものがいるということだ。それでも一年かけて築かれた信頼は堅い。まわりからの人望が今は彼女を護る盾になっている。


「有難い御言葉です」


 慧玲は微笑み、頭をさげた。


「私は、地毒ちどくを絶つそのときまで、薬であり続けます。いかにあろうとも。それが、今は亡きディアオ皇帝陛下との誓いですから」


 ディアオ皇帝が崩御してから、約ふた月が経った。

 時をおなじくして、六年に渡り失踪していた皇子が帰還したことで、宮廷は混乱の坩堝るつぼとなるかと想われた。だが、ほかでもない欣華シンファ皇后が皇帝にかわり、みずからが政をると宣言した。宮廷のおみは一様に皇后を敬い、彼女に服している。皇后の命に逆らうものはいなかった。


 これによって、宮廷の秩序はひとまず維持された。


 皇帝がいなくなっても、後宮は変わらずに華の宮であり続けている。慧玲フェイリンもまた白澤の叡智を継承する食医として、なすべきをなすだけだ。


「お前は揺らがねぇな、食医」


 褒めているのか、あきれているのか、卦狼は微妙な苦笑をこぼした。

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