第六部《風の毒》は吹きすさぶ
2‐1如月に風邪きたる
後宮に春の風が吹いた。
だが、待ちに待った季節の風が連れてきたものは、綻びだす梅の香ばかりではなかった。
春の宮でまたひとつ、
ほかの殿舎では女官たちが頻りに
「起きたら、喉がいがいがとしたので、酷くならないうちに診ていただきたくて」
「喉がずいぶんと腫れておられますね」
後宮食医である
「
後宮で、とくに春の宮では昨今、例年にはないほど
「
「まずは、蓮根と生姜をすりおろしていただけますか」
「まかせてください。って、あれ、なんだか、ふつうの食材ですね?」
「これまでだと、薬をつくるとなれば、蟬の
「これは
特殊な食材をつかわずとも、薬になる。
蓮根はいくつかは花のかたちに飾りぎりして、残ったものをすりおろす。このとき、皮を剥かないのが肝要だ。荒くならないよう、布地につつんでしぼる。これを鍋にいれて、煮たたないように気をつけながらまぜ続けると徐々にとろみがついてきた。
味を調えてから葱をちらし、生姜をしぼる。
「調いましたね、
椀にいれてから、李紗のもとに運ぶ。
「こちら、蓮根と生姜の
暖かな湯気がほこほことあがる椀を覗きこんで、李紗が嬉しそうに「まあ」と手を重ねて微笑する。椀のなかでは、梅のかたちをした蓮根がふわふわと舞っていた。
「……ふうふぅ……ん、素朴ですが、どこか懐かしい味わいで……ふふっ、おいし
い」
とろんと李紗が瞳を潤ませて、息をついた。
「なんだか、喉のいたみがやわらいできたような。ほかほかと温まって、朝から続いていた寒けがなくなりました」
言葉どおり、先程まで青ざめていた李紗の頬が微かに紅潮していた。
「これは、どのようなお薬なのですか?」
「まずは生姜です。生姜には身体を温め、じんわりと発汗を促して、風邪を発散する効能があります。続けて蓮根をすりおろしたものは、喉の痛みをやわらげ、咳をとめる薬として民間でも親しまれてきました。最後に葱ですが、葱は風邪にたいへん効果のある漢方のひとつで、季節の移りめに低下してしまった免疫を高めてくれます」
慧玲はよどみなく語る。
「特別なものをつかっているわけではないのに、こんなに効能があらわれるなんて、さすがは食医さんですね」
李紗が感嘆する。
「
その時だ、診察中の
「食医はまだ、いるか?」
「春妃からのつかいの
「承知いたしました」
解ってはいるのだ。彼は眼つきが悪いだけで、別に睨みつけているわけではないと。だが、こうも視線をそそがれては落ちつかない。
「……あの、なにか、ありましたか?」
「いいや、すっかりと後宮食医になったもんだと思ってな」
「私は、もとから後宮食医ですが」
奇妙なことをいわれて、瞬きを繰りかえす。
「んなことは知ってる」
卦狼は
「ずいぶんと頼られてるんだなってことだよ。いまとなっちゃ、表だって渾沌の姑娘だと疎んじるやつはめったにいないだろ」
つまりは、裏ではまだ彼女を謗り、疎んじているものがいるということだ。それでも一年かけて築かれた信頼は堅い。まわりからの人望が今は彼女を護る盾になっている。
「有難い御言葉です」
慧玲は微笑み、頭をさげた。
「私は、
時をおなじくして、六年に渡り失踪していた皇子が帰還したことで、宮廷は混乱の
これによって、宮廷の秩序はひとまず維持された。
皇帝がいなくなっても、後宮は変わらずに華の宮であり続けている。
「お前は揺らがねぇな、食医」
褒めているのか、あきれているのか、卦狼は微妙な苦笑をこぼした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます