2‐18この地獄にはおまえがいるから

 月が満ちると、は飢える。

 頭が痺れ、思考はかきまぜられ、堪えがたい渇きが喉から胸まで燃やす。慧玲は房室へやの隅に身を寄せて息も絶え絶えに膝を抱えていた。


「はっ、はぁ……」


 今朝から段々と飢えが酷くなり、昼頃には立ち続けているのもつらいほどになった。診察と調薬を終え、藍星ランシンと別れるまではいつも通りに振る舞ったが、離舎りしゃに帰ってきたとたんに緊張が解けてこの有様だ。


 卦狼グァランにもいわれたが、食医しょくいとして信頼されるようになってから、続々と依頼が舞いこみ、朝から晩まで藍星ランシンと一緒に後宮をかけまわっていた。地毒ちどくにかぎらず、医官が処方する漢方薬でも事足りる病でも、この頃は「是非とも食医しょくいに」と声が掛かる。


 ほんとうは、いまだって、こんなふうに倒れている暇はないのだ。


(まもなく皇后様の使者がきて、毒をもらえる。それまでやり過ごさないと)


 窓を飾る月を睨み、唇をかみ締めていると、微かに笹を踏みわける音が聴こえてきた。ようやくきてくれたのかと想い、慧玲フェイリンはふらつきながら表にむかう。

 だが、そこにいたのは皇后つきの女官ではなかった。


「やあ」


「なぜ、おまえが」


 ヂェンが風に吹かれてたたずんでいた。

 昏い毒を漂わせ、彼は微笑みかける。


「そっけないね。せっかく皇后からの毒をもってきてあげたのにさ」


 鴆は袖から青竹の筒を取りだす。青竹のなかで毒がとぷりと浪うつ。それだけでも欲を掻きたてられて、慧玲は知らず喉をならした。


「ずいぶんとつらそうだね」


 気遣われるほどに飢えた眼をしていたのか。強がりの微笑を青ざめた唇に張りつけ、いつからか、身についてしまった口癖を紡ぐ。


「だいじょうぶよ」


 ヂェン睛眸せいぼうが、陰る。


「……へえ、そうはみえないけどね」


「毒があれば、朝までには落ちつくもの」


 そういって預かろうとしたが、鴆はふいと毒を持っていた腕をあげた。

 鴆とは身長差があるので、つまさきだっても指さきがかすめるだけだ。慧玲は柳眉を逆だてる。


「どういうつもり」


「もちろん、あんたに毒を渡すつもりだよ」


「だったら」


「けれど、毒を飲むんだったら、今この場で飲め」


 慧玲フェイリンが頬を強張らせた。


 毒をのんだあと、慧玲は一時錯乱する。意識はないが、酷く肌を掻きむしっていたり物が散乱していたりするので、醜態を晒すことは想像に難くなかった。


「いやよ」


「この僕でも、か」


 息をのみ、緑眼りょくがんを見張る。

 すぐ側から覗きこんでくる鴆の表情は切なげにゆがんでいた。ともすれば、睨みつけるような眼差しをしているのに、ひどくやさしい。


 だから、ほどかれてしまう。


 限界まで張りつめていた琴線を絶ちきられ、崩れてしまう。


 彼は毒だ。慧玲が知るかぎり、もっとも強い毒。

 強かであろうとする彼女のこころを蝕み、突き崩す、ただひとりの毒。


 戸惑っているうちにヂェンは竹筒の栓を抜いた。


ミン藍星ランシンにも、リー雪梅シュエメイにも、知られたくないことでも――僕にだけは隠すなよ」


 顎をつかまれて、無理やりに毒をのまされる。

 抵抗したくとも貴重なものをこぼすわけにはいかず、喉にそそぎこまれた毒を飲みくだすほかになかった。


「っ……」


 胸の底から、噴きあがるように劫火が燃えさかった。


 肌に碧い刺青しせいが拡がる。

 孔雀が舞いあがろうとするかのような。華やかでありながら、残酷さをともなった紋様だ。毒紋は喉に絡みつき、項を侵す。神経を焼きこがすような眩暈に見舞われて、慧玲は足許から崩れる。


 鴆はすかさず彼女を抱きあげ、離舎の房室へやに運んでいく。


 鴆は臥榻しんだいに腰をおろして、壁にもたれた。膝に乗せられた慧玲は後ろから抱き締められるようなかたちになる。


「うっ、あ……」


 身のうちが燃えて、呼吸ができない。


 視界はすでに毒に侵されていた。

 想いだしたくもない映像ばかりが、よぎる。姑娘むすめを喰らおうとする先帝の飢えた眼。呪詛を紡ぐ母親の唇。助けられなかった夏妃の死にざま。いずれも彼女にむかって、怨嗟どくきかけてきた。


 身を蝕むだけならば、いい。

 だが、心をも毒されて、意識が遠ざかる。


「っ……ふっ」


 息もまともにできず、胸を掻きむしろうとすれば、背後から腕をつかまれた。細い指が絡みついて、動けなくなる。


「いっただろう、あんたの地獄は残らず、僕のものだ」


 耳殻に息を吹きこむようにヂェンが囁きかけてきた。背筋が痺れる。


「好きなだけ、苦しみなよ。僕がみていてやるから」


 やさしさのかけらもない言葉とは違って、その声は縋りつきたくなるほどにあまやかだった。指だけを動かして、鴆の袖をつかむ。

 道連れにするようにひき寄せた。


 鴆が微笑する。


 毒の地獄に落ちていくとき、彼女はきまって、身をきるような孤独感にかられる。だが、今晩は心細さを感じなかった。それはきっと――――


(この地獄にはおまえがいてくれるから)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る