2‐19薬と毒はひとつ

 さながら、羽根を破られた蝶だった。


 毒に蝕まれた慧玲フェイリンは、緩やかに錯乱した。

 声にならない声をあげて、細い脚をばたつかせ、強張った腕で空を掻き続ける。ヂェンが抱き締めていなければ、毒が抜けるまでに傷だらけになっていただろう。


 絶望のなかでも絶えず胸を張って、したたかに微笑み続ける彼女を壊すほどの毒だ。その異様さがわかる。


 これまで、彼女はたったひとり、この混沌たる嵐を乗り越えてきたのか。


「惨めだね」


 乾いた嘲笑をきかける。

 毒に侵されながらも、まだ、堪えなければならないという意識が残っているのか、彼女は始終唇をかみ締めていた。


「つらいんだったら、喚けばいい。誰も聴いちゃいないんだからさ」


 かみ締めすぎた唇から、ほつりと血潮がこぼれた。


「はあ、ほんとに強情だな」


 鴆がため息をつき、いたわるように唇に触れる。


「ほら、僕の指でも、かんでおきなよ」


 ほんとうは接吻くちづけでもしてやりたいところだが、こちらに毒がまわっては命にかかわる。

 濡れた舌をあやし、唾をかきまぜ、呼吸を絡めとる。口を塞いでいるようでいて、違った。張りつめていた喉から、かみ砕かれた声をひきだしていく。


「っあ」


 なにかをいいたげに舌を動かしたので、指をひきだせば、細く、声が落ちた。


「……っごめ……なさい」


 緑眼りょくがんを濁らせて、慧玲は壊れたようにそればかりを繰りかえす。眼の底にわだかまる怨嗟は、ほかでもない彼女がみずからにむけてきたものだ。


 鴆はその事実を、ほかでもない彼女から聴いた。


 禁毒ごんどくに侵された先帝を解毒するただひとつの薬が、実の姑娘むすめたる慧玲の心臓だった。だが、彼女は薬になれず、母親から怨まれた。先帝にたいする悔恨を、彼女は抱え続けている。


「哀れだね、あんたは」


 華奢な身を抱き締めなおして、髪を梳いた。孔雀のこうがいが微かに震える。白澤の証たる銀の髪からそれを抜き、臥榻の横においた。


 怨まなくていい。謝ることはない――


 そういって、なだめることは易かった。

 ミン藍星ランシンだったら、一緒に涙をながして「どうか、あやまらないでください」となぐさめるはずだ。リー雪梅シュエメイでも「貴女はわるくないじゃない」と抱擁して、励ますに違いなかった。花を振りまくように溢れんばかりのやさしさをもって、慧玲のことを、許そうとする。

 それがわかっているから、慧玲は彼女らの前では悲鳴をあげない。


 怨嗟という毒をのむことで、彼女は薬であり続けているのに。

 毒は彼女の、ただひとつのよすがだ。


 それを理解できるのは鴆だけだった。


「死ぬまで、怨み続ければいいさ」


 彼女を許せるものは、すでにいないのだから。

 死者は、裁いても、許しても、くれないものだ。

 みずからを怨み続けるという彼女の毒を、彼は肯定する。鴆は濡れた緑眼を覆って、細いくびに頬を寄せた。


(彼女を哀れんでやれるのは、僕だけだ)

 


 …………

 


 慧玲が落ちついたのは鶏鳴けいめい(午前二時)の鐘が響きわたる頃だった。まる窓を飾っていた月は竹林の端に沈みかけている。

 鴆は錯乱する慧玲を抱き締め、寄りそい続けた。

 素肌に絡みついていた刺青しせいが散る。毒の嵐を終えた慧玲が眠りに落ちるとき、嗄れた声で細くつぶやいた。


 なにかと想って、鴆が耳を寄せる。


「…………おいていかないで」


 父親にも、母親にも言えなかった幼い悲鳴。愛するひとたちに縋りつくことは、できなかった。

 そう、産まれついた。


 鴆が微かに嗤った。


「言われなくても、離すものか」


 項垂れている首筋に接吻くちづけを落とす。薄く痕が残る程度にかみついた。慧玲は微かに声をあげたが、疲れているためか、起きることはない。鏡で覗いてもわからないところだが、藍星ランシンはどうだろうか。


 鴆は慧玲を抱きかかえ、臥榻しんだいに身を投げる。


 いつのまにか、月は落ちて、あとかたもなくなっていた。

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