2‐16皇帝の倚子は地獄の底にある

 宮廷では男たちが廻廊の端に身を寄せて、ひそひそと昏い声を重ねていた。後宮の華ばかりが、噂をするわけではない。表立ってはけない毒を噂に織りこみ、徒党を組むのは男も女も変わらなかった。

 先だっては、もがりにあったディアオ皇帝が一晩にして骨になっていた、という奇妙な噂が実しやかに囁かれていた。だが、さすがに不穏だと想われたのか、いつのまにか語るものがいなくなり、いまはヂェンの風評が流布されている。


「皇太子が蛮蜃ばんしんの王を招致して、おもねっているらしいぞ」


「軟弱な。コクの威信にきずをつけるような真似をして」


「これだから、宮廷で育ってもいない落胤おとしだねを迎えるなど、得心がいかなかったんだ」


「大帝国の恥だ」


 皇后につかえる佞臣ねいしんたちだ。なかには九卿きゅうけい太博たいふまでいた。九卿といえば、官職のなかでも最も身分がある官職であり、太博は皇帝を助け、皇子に教育を施す役割を担っている。そのようなものまでもが次期皇帝に毒をくとは由々しき事態であった。


 その時だ。鴆がちょうど、宮廷の廻廊を通りがかった。


 鴆の姿をみて、男たちは聴かれていなかっただろうかと息をのみ、緊張する。太博たいふだけが白髪まじりの頭を低くして、取り繕うように鴆の側に寄っていった。


「皇太子様、シンよりの公賓こうひんはたいそうお喜びになられ、先程帰国されたとか。内政に留まらず、外政にも熱心であらせられるとはいやはや、素晴らしい。このガン、感服いたしました」


 先程までとは裏腹な態度で、ガンと名乗った太博はヂェンに媚を売る。


ガン、貴公は雕皇帝ちちうえの側近だったとか。貴公ほどの者にそのような言葉を掛けてもらえるとは幸甚だよ。皇帝になるには至らぬ身だが、教授の程を頼む」


 鴆は愛想よく微笑んで謙虚な言葉をかえす。ガンは「恐縮でございます」と官服の袖を掲げた。腹のうちでは、巧く取りいれば懐柔できそうだ、と想っているに違いない。


(せいぜい、僕のことを侮っていてくれ)


 ガンとすれ違い、ヂェン燈火あかりのついた廻廊を進んでいく。いまはまだ斜陽が残っているが、まもなく、日が落ちるだろう。


(操りやすい傀儡かいらいだと想われているくらいのほうがこちらも動きやすい)


 ヂェンは宮廷である物を捜している。

 ひとつは目障りな高官たちを失脚させるための汚職の証拠だ。官費かんぴを横領しているものがいることはわかっている。一年前は左丞相さしょうじょうが帳簿を書き換えていたが、いまだに他のものがそれを続けていた。


 もうひとつは――――


(皇帝になど、なりたいものか。麒椅ぎょくざは地獄の底の、底にある。そんなところに縛られるなんて、願いさげだね)


 そう理解していながら、彼は慧玲フェイリンを女帝にしてやるといった。だから、これははなから矛盾しているのだ。その言葉に潜む鴆の毒を知ったら、彼女はどうするだろうか。


 臆するか。なおも笑うか。


(僕が欲しいものはただひとつだ)


 風が吹き渡る。ふせていた視線をあげれば、黄昏のかたわらで月が満ちていた。どろりととろけるような春の月だ。


 皇后のもとに急がなければ。


 玉佩ぎょくはいを奏でて、ヂェンはうす昏い廻廊を進んでいった。

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