2‐7食なくして人は非ず

「ああ、実はそれについて、食医しょくいである貴女の智恵を借りたくてね。後宮に渡ってきたところだったんだよ」


 ヂェンによれば、コクの宮廷に訪れてから、蜃王シンおうは一度も食事を取らないのだという。


「この国は毒の飯しかだせないのか――そういったきり、彼は箸をおき、杯をかわすことも拒絶している」


 いかに豪華な食を振る舞おうとも、彼の態度は変わらなかった、と鴆は続けた。


「毒……ね。まさか、地毒ちどくのことを知られたとか」


「可能性がないわけではないが、かぎりなく低い。毒疫どくえきのことを知っていたら、一国の王が危険を冒してまで訪問するはずがないからね」


 毒疫については緘口令かんこうれいが敷かれている。宮廷の一部の官僚を除き、民は毒疫がいかなるものかを知らず、よって情報を洩らすこともない。もっともコクが異常事態だということは、すでに大陸外にも知られているだろう。


 今後のことを考えれば、うれいで春の花が曇る。


「こちらとしては、領海条約りょうかいじょうやくだけはなんとしても結びたい」


「どういった条約なの」


「大陸からシンへ穀物を始めとする食物の輸出をするかわりに、蜃の領海りょうかいにおけるコクの貿易船の通航を認めてほしいという条約だよ」


 剋は大陸を統一したが、海を統べるのは蜃だといわれている。これは蜃が南海の領海を統轄するほか、金塊きんかいが採掘できる島々を掌握しているためである。シンがこの百年程で富を築き、大国となったのはこうした鉱物資源によるものだ。


 資源はともかく、南海なんかいの海域を通航できないことは、小大陸との貿易を進めるにあたって大きな障害となっていた。


ディアオろくに政務をしていなかったせいで、経済が停滞しているんだよ。いまのところは民に影響するほどの景気後退には陥っていないが、僕の推測だと時間の問題だね」


 領海条約りょうかいじょうやく締結ていけつによって小大陸との貿易が盛んになれば、傾きかけた経済も持ち直せるはずだ。


「また、この条約を通じてシンとの友好関係を結ぶことで、蜃からの侵攻という危険を先んじて取り除ける。蜃は祖先が海賊というだけあって、争い好きだからね。火種は根から絶っておくべきだ」


「かといって、不必要に譲歩して契約を結んでもいけない。皇帝の死後、コクが弱体化したから、シンに媚びているのだと取られかねないもの。小大陸にはあくまでも、蜃との友好関係を築きあげることで剋がさらに拡大した――と想わせなければならないわけね」


 はったりだとしても、今後よけいな戦争を避けるためには必要なことだ。


「蜃にとっても、この条約を締結すれば、利するところがある。だが、海路をあけ渡すことで、こちらが条約を反故にして蜃に侵攻、もしくは鉱物を奪うのではないかと疑われているわけだ」


 まずは公賓こうひんをもてなすことで蜃の信頼を得て、この条約は友好関係を結ぶためのものだと理解してもらわなければ、条約の締結はとても望めない。だが、会食をかねた宴がそんなふうにぎすぎすとしていては、信頼を築くには程遠かった。


「食なくして人はあらず」


 それは、白澤はくたくの教えのひとつだ。


まつりごとたるは人がなすものよ。争うも和するも食ひとつ――」


 き食あれば、和する。


 その理念に基づいて、慧玲は様々な難事を乗り越えてきた。食を通じて、こちらの誠意を表すことができれば、頑なに拒絶するシンの心をひらくこともできるかもしれない。


「わかった。私が食を調えましょう」


 それにしても、妙だ。


 雪梅シュエメイ妃の話だと、宮廷にシン王がきてから七日経つ。

 七日飲まず食わずであろうはずがない。戦争の時に持っていくような食物を持参しているのかもしれないが、それにしても調理は必要だろう。


「蜃王の連れてきた者たちが宮廷の庖房くりやを借りたりはしないの?」


「いまのところは確認できていないね。宮廷の庖房には衛官もつけているから、おそらく立ちいることはできないはずだ」


 庖房くりやの警備は宝物庫と変わらないほどに厳重だ。誰もが侵入できるようでは、絶えず毒殺の危険がつきまとう。


「蜃王いわく、宮廷の庖房で造られたものなんか、食えない――そうだ」


 慧玲が考えこむ。


 蜃王の指は酷く荒れていた。掃除や洗濯にかけまわっている女官ならばまだしも、身分のある男があれほど荒れた手指をしているものだろうか。それに女の化粧を過剰にいやがるあの言動。趣味嗜好の問題ではなかったとすれば――


 慧玲のなかにひとつの答えが導きだされる。


「庭で火を焚いた痕跡がないか、すぐに確認して」


 ヂェンは眉の端をはねあげた。


「宮廷の庖房で調理したものは食べられない、毒の飯ばかり。あれは挑発ではなく、言葉通りの意味かもしれない」

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