2‐5海からきた季節はずれの夏の嵐

 黄昏に星がひとつ、あがった。

 まもなく帳が落ちる。

 妃嬪ひひんたちの診察を終え、提燈あかりが要らないうちに春の宮から離宮に帰ろうとしていた慧玲フェイリンだったが、妙に騒がしい声が聴こえて、足をとめた。


 きゃあという妃妾ひしょうの悲鳴に続いて、聴きなれない男の声がする。


「なんだよ、ここには香粉おしろい臭い女しかないのか。やすっぽく飾りたてた女ばっかでつまらんところだな、後宮とやらはよ」


 宦官かんがんがこんな野蛮な喋りかたをするはずがない。


 声のぬしは廻廊の角をまがって、こちらにむかってきた。

 慧玲は想わず身構える。


 顔を覗かせたのは異人いじんの男だった。荒海を想わせる碧眼へきがん褐色かっしょくの肌、大陸では希少な更紗織さらさおりの服をきて、黄金の首飾りや腰飾りを幾重にも身につけていた。腰には剣をさげている。二十五歳ほどだろうか。細身だが筋骨隆々で、背は卦狼グァランと同等か。


 だが、なぜ、後宮に男が――


 慧玲フェイリンをみて、男が眼の色を変える。


「はっ、なんだ、いい姑娘おんなもいるじゃないか」


 男はいきなり、慧玲の腕をつかんできた。

 身を強張らせる慧玲を強くひき寄せ、男はあろうことか、緑絹りょっけんの服をぬがせようとする。

 ぞわりと背筋が凍てついた。


「いやっ、やめてください」


 慧玲フェイリンは咄嗟に男の頬をはたいた。

 男はまさか、頬を張られるとはおもわなかったのか、虚をつかれたように碧眼へきがんをひらき、黙る。

 だが、彼はこらえきれないとばかりに笑いだした。


「くくっ、いいねぇ、気の強い姑娘おんなは好きだぜ。わかった。客房へやにこいよ、それだったらいいだろう?」


「やめてといっているでしょう!」


「そう、いやがるなよ」


 振りほどこうと抵抗したが、手首を握りこまれて、身動きをふうじられた。がさがさに荒れた指が喰いこみ、折れてしまいそうに軋む。姑娘むすめの細腕ではどれだけ頑張っても男にはかなわない。


「この俺に選ばれたんだ。歓んで、もてなせよ」


 せめてもと果敢に睨みつけるが、男は喉を膨らませて笑うだけだ。


「非礼な振る舞いはそこまでにしていただこうかな、シンの王」


 聴きなれた声がして、慧玲が振りかえる。


 シュ ヂェンだ。

 これまでとは違い、帝族の身分を表す紫の服に身をつつみ、銀製の髪留めにかんざしを挿している。彼は一瞬だけ剣呑けんのんな眼をして異人の男を睨みつけたが、すぐに愛想笑いを張りつけて物腰穏やかに語りかけた。


「この宮廷の妃たちは、妓女ぎじょではない。まして、後宮は男子禁制の庭だ」


「まともに食えるものもだせないんだ。女くらいは、好きに選ばせろよ。それがはるばる海を渡ってきた客人にたいするもてなしってやつじゃないのか」


 異人の男が嘲笑する。たいする鴆は冷静だ。


「貴公は貴賓きひんだが、客であるからこそ、こちらの規則には順じてもらわなければこまるよ。秩序を乱すならば、しかるべき処置を講ずるほかになくなってしまう。だが、それは私としても望むところではない」


「はっ、お堅いこったな、興がそがれた」


 蜃王は強くつかんでいた慧玲の腕をはなす。彼はつまらなさそうに袖を振りながら遠ざかっていった。季節を違えた真夏の嵐のような男だったが、そうか、あれがシンの――


「慧玲……」


 ヂェンがかけ寄ってきた。

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