2‐3風邪を治す薬はない

 廻廊にいても、あちらこちらからせきくしゃみをする声が聴こえてきた。


「せっかくの梅の時季だというのに、いやになっちゃうわよね」


 雪梅シュエメイがやってきた。「雪梅嬪」といいかけて、彼女はすでに春妃しゅんきなのだと思いなおす。


 リー雪梅シュエメイ――


 彼女が春妃に就いたときの季儀ときぎは、たいそう華やかだった。

 雪梅は歌舞や雅楽を演ずるものたちを連れて、夏宮、秋宮冬宮とまわり、皇后のいる貴宮で宣誓をしてから春の季宮に還る――雪梅はこの経路を舞いながら通った。梅の舞姫らしく誇らかに。華やかなものに特には感銘を受けない慧玲でさえ、雪梅の華姿には胸が高まった。


「雪梅妃は不調をきたしてはおられませんか?」


「だいじょうぶよ、いまのところはね。例年でも女官たちが寝こんだり、というのはたまにあったけれど、ここまで酷いのはそうはないわ。でも、よかった。貴女の薬があれば、この感冒かんぼう騒ぎもじきに終息するでしょう」


 雪梅妃には産まれたばかりの帝姫ひめがいる。感染したらと案じていたに違いない。薬を処方するので懸念は要りませんと力づけたいところだが、雪梅シュエメイに嘘はつけなかった。


「実を申しますと、感冒かぜに薬はございません」


 思いも寄らなかった言葉に雪梅が眉を曇らせた。


「どういうことなの」


「どの漢方も感冒の諸症状を抑えるだけで、もとである風邪ふうじゃを絶つのは患者自身です。感冒かんぼうは免疫によってしか治癒しません。今後も感冒かぜの薬はできないでしょう」


 冬から春にかけては寒暖の差が激しく肝が衰えやすい。免疫が低下すれば、風邪ふうじゃが侵入する。風邪ふうじゃは百病の長だ。


「よって、風邪に侵入されない基礎をつくることが肝要になります。食医の本懐は未病を治療することです。よい睡眠を心がけ、鶏卵、人参や牛蒡、蓮根、芋等の根菜類を食すようになさってください」


 慧玲は荷を解いて、ある物を取りだした。


「こちらは蓼藍タデアイの根を煎じた茶です」


 蓼藍の葉は板藍根バンランコンという漢方のもとだ。藍染の染料としてもちいられる。蜘蛛や蛇の解毒、虫除けとしてもつかわれるが、根は解熱、抗菌の薬能がある。


「これを飲めば、風邪を絶てるのかしら」


「いえ、飲むのは感冒にかかってからです。予防としては、こちらを淹れ、さましてからうがいにつかってください」


「心強いわ」


 雪梅妃は梅が綻ぶように微笑んだ。

 いまは春宮が感冒騒ぎになっているが、ほかの宮にも拡大するおそれがある。慧玲フェイリン藍星ランシンに茶葉を渡して、夏秋冬の宮に配給するよう、お願いした。


 引き続き、妃嬪の診察にむかわなければ。


「ちょっとだけ、時間はあるかしら。殷春イェンチュンの白梅が咲いたのよ」


 殷春というと、雪梅が唯一愛した宦官だ。はからずも、彼の遺した毒が慧玲と雪梅のえにしを結ぶことになった。


「左様ですか。ぜひともご一緒させてください」

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