104元宵祭の天燈に幸福を祈る

 皇帝の崩御から約一カ月が経った。

 喪に服していた後宮も今晩だけは賑やかに華やいでいる。


 元宵祭げんしょうせつだ。

 元宵祭は春節しゅんせつの最後を飾る祭事である。皇帝の崩御を享けて取りやめになるかとおもわれたが、燈明を飾るこの祭には鎮魂の意もあるということで月後れで催されることとなった。

 愁いをひと時吹きとばすようにして、祭りは盛大に祝われた。

 元宵祭では日暮れから翌朝まで宴が続く。麒麟舞きりんまいが一晩掛けて四季の宮をまわり、飲食の屋台が軒を連めた。だがこの祭りの最たる催しはほかにある。

 黄昏こうこんの正刻(*午後八時)の鐘とともに妃妾たちが橋に集いだす。


「ほら、慧玲様もどうぞ」


 雪梅シュエメイ嬪に誘われて祭りに参加していた慧玲フェイリンは、藍星からまだ火のはいっていない提燈を渡された。

 くれない筒紙つつがみ竹簽たけやごで造られた天燈てんとうという特殊な提燈ちょうちんだ。


「紙に願いごとを書くそうですよ」


藍星ランシンはなにか書いたのですか」


「ええっとですね、故郷の家族が健康でありますように。母の病態が落ちつきますように。素敵な殿がたとご縁がありますように。御給金が増えますように。文官志望の弟の成績があがりますように……」


 藍星は順番に指を折りながら、つらつらと願い事をあげる。


「そ、そんなにですか」

「せっかくですから、書けるだけ書いておかないと損じゃないですか! あ、あと、最後にもうひとつ」


 まだあるのかと苦笑する慧玲フェイリンをよそに、藍星ランシンは屈託なく笑った。


「慧玲様が幸せになりますように、と」

「……藍星……」


 藍星は星のようなほくろに影を集め、眉の端をさげる。


「慧玲様。私には、慧玲様にとっての幸せがどんなものかは解かりません。でも解からなくても、願うことくらいはできます。願わせてください」


 藍星は慧玲の道標だ。幸福からは遠い道ばかりを選んでしまう慧玲を明るい処に連れもどしてくれる。だから、慧玲は安心して、昏いいばらの道を進めるのだ。


「ありがとう、藍星」


 慧玲は筆を執り、暫くは思案したが、願い事が想いつかなかった。星に祈ることなど、ひとつもない。

 無地の筒紙に火を燈す。


 月にむかって、春宮はるみやの妃妾たちが一斉に天燈を放つ。

 人々の願いを乗せ、提燈は緩やかに舞いあがった。風に惑わされることなく、何処までも。燃える星をちりばめたように天燈がそらを埋めつくす。橋から覗けば、水鏡にも燭明しょくめいが映り、さながら星漢あまのかわのようだった。

 天燈こそが、元宵祭げんしょうせつの妙趣だ。


「どう? 祭りは楽しめているかしら」


 雪梅嬪が声を掛けてきた。後ろには杏如シンルゥを抱いた小鈴シャオリンが控えている。

 雪梅嬪は昨年の春振りに舞を披露したばかりだ。御子おこを産んでも、彼女の舞は麗しかった。それどころか、愛しみを表現する舞が真にせまり、これまでは雪梅嬪を妬んでいた妃妾たちもそろって感嘆の息を洩らしていた。


「綺麗な祭りですね。毎年離宮からあかりを眺めるばかりでしたので、これほど賑やかだったと知りませんでした」


「偶には息を抜かないとね」


 雪梅嬪が紅唇くちびるを綻ばす。

 藍星はいつのまにかいなくなったとおもったら、元宵という茹でだんごを頬張っていた。もきゅもきゅと頬を膨らませて、非常に嬉しそうだ。屋台で購入したのだろうか。


「慧玲様もおひとつ、いかがですか」


「いいんですか」


「こんなに食べたら、肥っちゃうので」


 この頃は人に食べさせてばかりで、自身はろくな食事を取っていなかったと想いだす。

 元宵とは祭りの晩に食す伝統の甜点テンテンだ。舌に乗せたのがさきか、生地が蕩けて餡があふれだした。花の香が拡がる。餡に金木犀が練りこまれているのだ。

 慧玲が頬を綻ばせる。齢にふさわしい微笑だ。


「よかった。そんな顔もできるんじゃないの。貴女、このところはずっと張りつめていたから。無理もないけれど」


 雪梅嬪が優しく髪を梳いてくれた。


(こんなこと、春秋しゅんしゅうめぐるまでは考えもしなかった)


 慧玲は想う。


(私は疎まれものだったのだもの)


 渾沌こんとん姑娘むすめとして疎まれ、誰からも遠ざけられていた。後宮を通り掛かるだけで後ろ指をさされ、傷つきはせずとも胸のうちには絶えず風が吹き続けていた。

 だが、いま、彼女に寄りそって微笑みかけてくれるひとがいる。

 幸せだ。

 光に満ちた風景の端にふっと一陣の影が差す。からすのような後ろ姿に一瞬、意識がすべて絡めとられた。緑の瞳が見張られる。


「……ああ、貴女、恋に落ちたのね」


 雪梅嬪の嬉しそうな言葉が耳殻じかいをかすめた。

 月の盈虚にあわせて、海の潮が満ちるように群衆が動きだす。黒服の背に気を取られているうちに雑踏に揉まれ、慧玲は藍星たちと逸れてしまった。


「慧玲様!」


 藍星の声が聴こえて、そちらに踏みだそうとする。だがその時、後ろから袖をひかれた。微かに漂ったけむりに想わず息をのみ、振りかえる。

 闇に紛れるような黒服をまとったヂェンがいた。紫の眸がゆがむ。薄い唇が動いた。こっちにきなよと。


 遠くでは藍星ランシンが「慧玲様」と呼び続けている。慧玲は唇を微かにかみ、鴆と一緒に橋から離れた。

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