105ふたりの地獄に華が咲く

 ヂェンは宮の物陰ものかげまできてから慧玲フェイリンを抱きかかえ、屋頂やねに連れてあがる。屋頂を渡って、塔の屋頂にまであがったところで降ろされた。


 天燈てんとう春夏秋冬はるなつあきふゆと順序を踏んで、宮ごとにわけて放つ。


 夏宮なつみやの天燈が舞いあがった。

 燈火とうかが湧きあがって、風に漂いながら通りすぎていく。

 高い処から望んだあかりの瞬きは、強かった。果敢なかった。天燈は触れられそうなところまでせまっては遠ざかる。

 視線を馳せれば、遙かに瞬く星の海があった。都の民が放った天燈のむれだ。

 燃えているのは天ばかりではない。


 祭りの晩は軒端のきばや庭さき、橋に到るまで盛んに提燈が飾られる。天網てんもうのように火のみちが張りめぐらされた地上を鳥瞰ちょうかんして、慧玲は感嘆の息を洩らす。


「きらびやかな地獄みたいだろう。地も空も等しく燃えて」


 烟管キセルを吹かしながら、鴆がいった。


「貴女にみせたかった」

「……ああ、おまえにはそう、映るのね」


 彼にとって燃えさかる火は地獄の象徴だ。だが、慧玲は違った。


「私は――幾千幾万いくせんいくまんの数だけ、命があるのだと」


 民は草だ。燃えながら萌える根のある草。細やかな人の営みのなかにはそれぞれの幸福が繁り、不幸が根を張っている。それらを毒にするか、薬にするかは皇帝の器だ。

 皇帝、か。

 慧玲は屋頂の稜線に腰かけ、あらためて唇を解いた。


「おまえが皇帝になりたかったとは知らなかった」


 鴆がけむりを絡げ、喉だけで嗤った。


「は、頼まれてもなりたくはないね」

「そうでしょうね。おまえはそれほど愚かではないもの」


 寡欲とも違う。鴆は皇帝の倚子いすが如何なるものか、真に理解している。彼が貪欲に欲するだけの愚者ならば、あるいはこんな地獄を進むことにはならなかったのだ。


「権力なんか、濡れた絹みたいなものだよ。重く身にまとわりついて剥がせない呪いだ。それに僕が皇帝になったところで、結局は皇后の都合のいいように動かされるだけだ。駒なんだよ、全部皇后の」


「それは、皇帝陛下も駒だったということね」


 先帝に毒を盛ったのも皇后の策謀か。


「そこまで解かっていて、なぜ、おまえは皇后についたの」


 鴆は烟管キセルの燃え殻を落とす。


「毒をのんでもいいと想えるだけの、望みができたからだよ」


 緑瓦みどりがわらを踏み、振りむいたヂェンの瞳は毒を帯びていた。


コクは毒されている」


 鴆があらためていった。


天毒地毒てんどくちどくのこと、だけではなさそうね」

「宮廷ではいま、皇后に組みするものばかりが権力を握り、まつりごとを敷いている。異端分子は殺された。まあ、殺したのは僕だけどね。皇帝は経験がないからと古参こさん廷臣えいしんどもに選択権を預けていたが、官費かんぴを貪るだけで民の安寧など頭の端にもない奴らばかりだ。まあ、別段構わないことだよ、僕にとってはね」


 彼は怨嗟にひとみをぎらつかせた。


「僕は帝族ていぞくを怨み、民を怨み、コクを怨んでいる。なにもかもが嫌いだ。滅びてくれたらいいと想っている――だが、貴女はそうじゃないだろう」


 風が吹きおこる。天燈がひとつ、またひとつと燃えつきて、残火のこりびの尾をきながら落ちはじめた。天の星が崩れるかのように。

 彗星の群を背にしてヂェンが緩やかに跪く。ほかでもない慧玲フェイリンにむかって。


「皇帝になるべきは貴方だ、ツァイ慧玲フェイリン


 慧玲は戸惑ったが、彼の真剣な視線に唇をひき結ぶ。


「貴女は、貴女を慕うものも謗るものにも等しく、薬を与える。誰よりも毒を喰らいながら」


 天燈が絶える。昏い帳が天を蓋い、地に垂れた。

 だが、陰の征服に抗うように今度は秋宮あきみやを放つ。


コクの毒を解けるとすれば、貴女だけだ」


 慧玲は緑の瞳を揺らす。

 透きとおり、されど強い熱を帯びていた。揺るがぬ意志を宿し、怨嗟を帯び、絶望が彫りこまれた瞳だった。


(女帝になど、なれるとは想えない)


 易く驕るほどに愚かではない。彼女は現実を理解している。

 彼女の逡巡を察してか、鴆が黙って慧玲の脚をつかんだ。

 布製のくつから華奢な足を抜き、彼は強くひき寄せる。傷ひとつないつまさきだ。だがこの細い脚で彼女がどれだけの地獄を踏み締め、渡ってきたか、鴆だけは知っていた。

 鴆は愛しげに眸を細め、強かなつまさきに接吻を落とす。


「……おまえが、私を皇帝にしてくれるのね?」

「ああ、僕の毒をあますことなく、貴女に捧げよう」


 満ちた杯もなければ、宴もない。冕冠かんむりはなく、証人もおらず、証文もなかった。

 ただ、毒と薬だけだ。


「胸のうちを劫火に焼かれながら、残さず、喰らってくれ」


 彼は慧玲の腕を取って、あまやかに囁きかけた。愛とは程遠い毒を。

 うす紅の牡丹のような唇を綻ばせて、慧玲が微笑む。


「わかった。おまえの毒を私にちょうだい」


 薬は薬だけではならず。

 毒があってはじめて、薬と転ずるものだ。


「ぜんぶ喰らって、薬となしましょう」


 慧玲フェイリンは身をかがめ、ヂェンの唇を奪った。息を重ね、視線を絡め、愛を誓いあうようだったのはそこまでだ。

 彼女が鴆の舌の先端にかみついた。鴆が微かに息を乱す。

 だが身を離すことはせずに接吻を続けた。


 血潮に融けた鴆の人毒じんどくが慧玲の裡に融ける。強い毒を感じた慧玲の心臓がごうと燃えさかった。痺れるほどの歓喜だ。


 ふつと、唇を離して、慧玲は言葉をこぼす。


「おまえを喰らえるのは、私だけよ」


 皇后にだって、彼ほどの毒は喰らえないだろう。

 喰わせるものか。


「だから、おまえが私の毒をのみほして」


 ふたりが逢ったのは天毒の循りだ。互いを喰らいあうために逢った。だが喰らい、喰われることで、毒は毒で、薬は薬でいられる。

 鴆がふっと微笑した。彼にしては嘲弄も侮蔑もない、何処までも穏やかな微笑だった。それでいて、毒だけはある。


「ふたつの地獄が、これからはひとつになるね」


 ああ、そうか。

 彼女は絶えず、孤独だった。誰も彼女の地獄には連れていけなかったから。

 慧玲は胸のなかに落ちてきたその言葉を強く抱き締める。


「……そう、私の地獄には、おまえがいるのね」


 ならば、なにがあろうと進んでいける。


 毒の火群ほむらが燃えさかっても、華の嵐が吹き荒んでも。


 道連れがあるのならば。


 何処からともなく、神々しい咆哮が聴こえた。しょうの笛を想わせる神妙なる響きだ。ともすれば、動物の声だとは想えないほどにその咆哮は透きとおっていた。


 慧玲は息をのむ。彼女は一度だけ、この声を聴いたことがあった。

 新たな皇帝の誕生を祝福するかのように。


 麒麟が、えた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 これにて「後宮食医の薬膳帖」一期は完結となります。

 ここまで御愛読くださった読者様に感謝の想いがつきません。皆様のご声援のおかげさまで1年にわたって連載を続けることができました。これからも後宮食医の薬膳帖をよろしくお願いいたします。


 後日「小説家になろう」にてSSを投稿いたしますので、宜しければそちらもチェックしていただければ嬉しいです。

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