99「怨みを喀きだせ」
皇帝の
ましてや雷に撃たれて絶命したのだ。
はるか昔は皇帝の倚子の頭上に重厚な銅珠が提げられており、麒麟の祝福なく皇帝になった者が君臨すれば、鎖が切れて不敬者を殺すとされた。皇帝の死は、まさにその軒轅鏡が落ちるがごときものだった。
廷臣たちが恐慌するのも致しかたなかった。
離舎に帰ってきた慧玲は
(皇帝が息絶えた、天毒に毒されて)
いまだに現実が受けいれられない。
けれどもそれは時が経てば飲みこめることだった。
(皇帝は知っていた。先帝を壊した禁毒にたいする薬が、なんだったのか。知られていたんだ)
慧玲は唇を食い縛る。
考えようとするほどに思考が絡まった。
まずは飢えを満たさなければ。離舎にある毒は、すでに喰らったことのあるものばかりだ。飢えを凌ぐことはできない。
慧玲は髪に挿していた
鴆からもらった毒の簪だ。飢えているからか、硬い毒の珠にたまらなく食欲をそそられた。壊して、喰らってしまいたい。
(でも、だめだ。これだけは、壊せない――)
葛藤していると背後から不意に声を掛けられた。
「なにしてるんだよ。とっとと喰らいなよ。飢えているんだろう」
振りかえれば、
彼は毒の簪を取りあげ、あっけなく壊してしまった。慧玲が瞳を見張り、なんでと声を荒げる。
「なんで、ね。貴女こそ、どうして毒をつかわないんだよ」
「壊してしまったら、身につけられなくなるじゃない!」
食いさがると、鴆があきれたとばかりに嘆息した。
「これは飾り物じゃない、毒だ。さっきだって毒があれば、抵抗くらいはできただろう。毒として喰らうために渡したのに、いざという時につかわれないんだったら」
大事にしていた簪を毒として扱われたことが無性に哀しく、慧玲は意地を張る。
「だとしても、おまえは、私にくれたのでしょう。だったらこれは、私のもののはずよ、ことわりもなく壊すなんて!」
「ああ、うるさいな。いいから、
腕をつかまれ、組みふせられた。
まともな抵抗もできないうちに毒の珠が指ごと唇に挿しこまれる。かみついてやろうとしたのを感じてか、鴆の
身の
指が抜かれる。慧玲が息絶え絶えにいう。
「おまえ……なぜ、怒っているの」
「貴女が無神経だからだ。皇帝とふたりきりになるなんて愚かにもほどがある」
鴆は重いため息をついてから、確かめるように頬をなでた。
「なにもされなかったか」
彼がこれほどやわらかく、慧玲に触れてきたことがあっただろうか。だいじょうぶだと動かすつもりだった唇から、別の言葉がこぼれた。
「……こわかった」
誰にもいうつもりはなかった。
終わったことだ。それでも今頃になって、恐怖感が襲ってきた。震え続ける慧玲の肩を抱き締め、鴆は静かに寄りそってくれた。
しばらく経って、激痛をともなう飢渇がおさまってきた。
鴆に施された毒が吸収できたのだ。
毒を喰らい素肌を侵す青い翼は、段々と拡がってきている。胸から鎖骨を通り、首筋にまで。毒を貪るほどに彼女の身の裡でなにかが育つ。いつかは、この肌を破って舞いあがるのではないか。そんなことを考えてしまうくらいに。
「貴女は……ほんとうは、誰を怨んでいるんだ」
沈黙を破って、鴆が瞳を覗きこんできた。緑の底を摸るように。
「皇帝が息絶えてもまだ、貴女の瞳の底では毒が燃え続けている。貴女は死んだ先帝を怨んでいるといったが――
「先帝を怨んでいたのは、ほんとうよ。彼はいかなる毒をも喰らうという誓いを破った。それどころか、毒に喰われて悪政を敷いた……許せるものか」
毒を盛られたのだとしても、皇帝であるかぎり、彼の責は重かった。騙されることも罪になる、それが皇帝というものだ。
「もちろん、現帝にたいする怨みもある。父様を壊して、母様を死なせた。無残に死に絶えたとしても、怨みはそうかんたんにはつきない」
「だが、貴女の怨みはそれだけじゃない――そうだろう?」
秘すれば華だ。秘せられなかった華は散るか、毒に転ずる。今、言葉にすれば総てが崩れてしまいそうで、怖かった。
慧玲は青ざめた唇を噤み、沈黙に徹する。
「
顎をつかみ、鴆が誘いかけた。
「僕にだったら、毒を喀いても構わないといったのは貴女だろう」
あばかれる。落とされる。毒に侵され、地獄の底まで道連れにされるように。あるいは彼女のほうが
「……私がほんとうに復讐をしたかったのは」
かみ締めすぎた唇から、ふつと血潮が滲んで、こぼれた。
「私よ」
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