99「怨みを喀きだせ」

 皇帝の頓死とんしは宮廷を混沌の坩堝るつぼへと陥れた。

 ましてや雷に撃たれて絶命したのだ。


 軒轅鏡けんえんきょうという故事がある。

 はるか昔は皇帝の倚子の頭上に重厚な銅珠が提げられており、麒麟の祝福なく皇帝になった者が君臨すれば、鎖が切れて不敬者を殺すとされた。皇帝の死は、まさにその軒轅鏡が落ちるがごときものだった。


 廷臣たちが恐慌するのも致しかたなかった。


 慧玲フェイリンは最後に皇帝と一緒にいた証人として一時、捕縛された。刑部の官吏から取り調べを受けたが、皇帝の命を絶ったのが落雷であることは明白な事実であったため、一刻を経て釈放された。慧玲が終始青ざめ、がたがたと震えていたため、官吏たちは皇帝の死がよほどに堪えたのだろうと気の毒そうにしていた。


 ヂェンはあの後すぐに屋頂やねから屋頂へと渡って、姿をくらませた。

 離舎に帰ってきた慧玲は房室へやにあがったところで崩れるように倒れこんだ。眩暈は強くなり、脚と腕の痺れも続いている。だがそれだけならば、堪えることもできた。


(皇帝が息絶えた、天毒に毒されて)


 いまだに現実が受けいれられない。

 けれどもそれは時が経てば飲みこめることだった。


(皇帝は知っていた。先帝を壊した禁毒にたいする薬が、なんだったのか。知られていたんだ)


 慧玲は唇を食い縛る。

 考えようとするほどに思考が絡まった。

 まずは飢えを満たさなければ。離舎にある毒は、すでに喰らったことのあるものばかりだ。飢えを凌ぐことはできない。


 慧玲は髪に挿していたかんざしを抜いた。

 鴆からもらった毒の簪だ。飢えているからか、硬い毒の珠にたまらなく食欲をそそられた。壊して、喰らってしまいたい。


(でも、だめだ。これだけは、壊せない――)


 葛藤していると背後から不意に声を掛けられた。


「なにしてるんだよ。とっとと喰らいなよ。飢えているんだろう」


 振りかえれば、ヂェンがたたずんでいた。

 彼は毒の簪を取りあげ、あっけなく壊してしまった。慧玲が瞳を見張り、なんでと声を荒げる。


「なんで、ね。貴女こそ、どうして毒をつかわないんだよ」


「壊してしまったら、身につけられなくなるじゃない!」


 食いさがると、鴆があきれたとばかりに嘆息した。


「これは飾り物じゃない、毒だ。さっきだって毒があれば、抵抗くらいはできただろう。毒として喰らうために渡したのに、いざという時につかわれないんだったら」


 大事にしていた簪を毒として扱われたことが無性に哀しく、慧玲は意地を張る。


「だとしても、おまえは、私にくれたのでしょう。だったらこれは、私のもののはずよ、ことわりもなく壊すなんて!」


「ああ、うるさいな。いいから、くちをあけろ」


 腕をつかまれ、組みふせられた。

 まともな抵抗もできないうちに毒の珠が指ごと唇に挿しこまれる。かみついてやろうとしたのを感じてか、鴆のが嗜虐を帯びた。鴆の指さきが弄ぶように口腔を掻き、舌の先端をつまむ。接吻じみた動きに喉がはね、毒の珠が吸いこまれていった。

 身のうちで眠るものは、落ちてきた毒に喰らいつき、歓ぶ。脈が弾け、細い喉から熱を帯びた息があふれた。

 指が抜かれる。慧玲が息絶え絶えにいう。


「おまえ……なぜ、怒っているの」


「貴女が無神経だからだ。皇帝とふたりきりになるなんて愚かにもほどがある」


 鴆は重いため息をついてから、確かめるように頬をなでた。


「なにもされなかったか」


 彼がこれほどやわらかく、慧玲に触れてきたことがあっただろうか。だいじょうぶだと動かすつもりだった唇から、別の言葉がこぼれた。


「……こわかった」


 誰にもいうつもりはなかった。

 終わったことだ。それでも今頃になって、恐怖感が襲ってきた。震え続ける慧玲の肩を抱き締め、鴆は静かに寄りそってくれた。




 しばらく経って、激痛をともなう飢渇がおさまってきた。

 鴆に施された毒が吸収できたのだ。

 毒を喰らい素肌を侵す青い翼は、段々と拡がってきている。胸から鎖骨を通り、首筋にまで。毒を貪るほどに彼女の身の裡でなにかが育つ。いつかは、この肌を破って舞いあがるのではないか。そんなことを考えてしまうくらいに。


「貴女は……ほんとうは、誰を怨んでいるんだ」


 沈黙を破って、鴆が瞳を覗きこんできた。緑の底を摸るように。


「皇帝が息絶えてもまだ、貴女の瞳の底では毒が燃え続けている。貴女は死んだ先帝を怨んでいるといったが――詭弁きべんだろう」


「先帝を怨んでいたのは、ほんとうよ。彼はいかなる毒をも喰らうという誓いを破った。それどころか、毒に喰われて悪政を敷いた……許せるものか」


 毒を盛られたのだとしても、皇帝であるかぎり、彼の責は重かった。騙されることも罪になる、それが皇帝というものだ。


「もちろん、現帝にたいする怨みもある。父様を壊して、母様を死なせた。無残に死に絶えたとしても、怨みはそうかんたんにはつきない」


「だが、貴女の怨みはそれだけじゃない――そうだろう?」


 ヂェンは逢った時から、慧玲フェイリンが最も触れられたくない傷をすぐに見破る。

 秘すれば華だ。秘せられなかった華は散るか、毒に転ずる。今、言葉にすれば総てが崩れてしまいそうで、怖かった。

 慧玲は青ざめた唇を噤み、沈黙に徹する。


きだせよ」


 顎をつかみ、鴆が誘いかけた。


「僕にだったら、毒を喀いても構わないといったのは貴女だろう」


 あばかれる。落とされる。毒に侵され、地獄の底まで道連れにされるように。あるいは彼女のほうがヂェンを道連れにするのか。


「……私がほんとうに復讐をしたかったのは」


 かみ締めすぎた唇から、ふつと血潮が滲んで、こぼれた。


「私よ」

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