97「そなたに寵を与えよう」

 満ちた杯に火影ほかげが映る。


「緊張せずともよい」


 杯を掲げたディアオ皇帝がおおらかに微笑みかけてきた。

 黄昏に皇帝の房室へやを訪れた慧玲フェイリンだったが、診察などはなく、ただ皇帝からはむかいあって倚子にすわるようにうながされた。いまひとつ、なにを望まれているのか読めないうちに皇帝と杯を傾けている。


「皇帝陛下、私は杯を賜れるような身分では」

「伯父様といってくれ。われも姪としてそなたに接する。実によき姑娘むすめに育ったものだな」


 皇帝は相好を崩す。慧玲は想像だにしていなかった皇帝の言葉に視線を彷徨わせた。胸に棘が刺さる。毒の棘だ。

 皇帝と食医だから、私情を殺せたのに。


(親戚らしい言葉なんか、聞きたくもない)


 意識をそらすため、慧玲フェイリン房室へやに視線をむけた。

 診察にきた時はうす暗かったので気づかなかったが、皇帝の房室には豪華な調度もなく、季節の花も飾られてはいなかった。瑠璃の装飾が施された純銀の鳥篭が唯一、きらびやかで異様に視線を惹く。

 鍵はかけられているが、金糸雀カナリアはいなかった。

 からっぽの篭が心もとなく微かに揺れている。


(彼はなにを想って、金糸雀を可愛がっていたのか)


 今となっては、解からない。穏やかさの裏にある毒を知ってしまったからだ。


「そなたは苦境にあっても折れることなく、素晴らしき功績をあげてきた。毒を盛られた皇后を救い、死産になりかけた帝姫ていきの命を助け、この身を侵す毒をも絶った。あらためて礼を言おう」


「……幸甚にございます」


 復讐の意は、絶った。

 それでも怨嗟の余燼は瞳の底で熱を帯び続けている。そもそも皇帝のために怨みを絶ったわけではなかった。できるものならば声を荒げ、今すぐにでも糾弾したい。

 なぜ、父様に毒を盛ったのか。なぜ、ヂェンの母親に毒を造らせ、殺めたのか。


「そなたがいてくれて、ほんによかった」


 ここが地獄の底だといったヂェンの言葉が頭から離れない。ああ、まったくもって、そのとおりだ。視線をあわせるだけで胸の裡が焼けただれ、言葉を重ねるほどにこころが斬りきざまれる。

 これが地獄でなければ、何処に地獄があるというのか。

 杯をおき、ディアオ皇帝は「時に」といった。


われは子を生し難いようでな」


 本題か。慧玲はひそかに安堵の息をついた。


(薬のことであれば、感情を排せる)


 皇帝が不妊であるということは、他人には知られてはならない。給仕などを同室させていないのもこのためだったか。


「先帝も同様だったが、彼は白澤はくたくの一族を娶って直ぐに懐妊させた。白澤には不妊を克服させる力があるのやも知れぬ」


「偶然かと想われます。それに陛下は雪梅シュエメイ嬪とも御子おこができたではありませんか」


 皇帝は瞳を陰らせた。


「……雪梅シュエメイには好きあっていた男がいたという。宦官でも女を孕ませることができるものはいる」


「まさか、雪梅嬪を疑っておられるのですか」


 雪梅嬪には確かに愛する男がいた。だが雪梅嬪は、誓って皇帝の御子みこだと胸を張った。宦官と夢を結んだことはなかったのだ。

 不貞を疑うなど、雪梅嬪にたいする侮辱だ。


「畏れながら、雪梅シュエメイ嬪は」


「どうでもよいことだ」


 慧玲の言葉を割り、皇帝は言い捨てた。

 続けて彼は、慧玲の肩を抱き寄せる。


「そなたに寵を与えよう」


 咄嗟に言葉の意が理解できず、慧玲は凍りついた。


「先ほどは、姪として……接すると」

「そなたは姪ではあるが、後宮にいるかぎりは妃妾であろう」


 腕をつかまれ、無理矢理に房室へやの奥に連れていかれる。帷を潜ったさきには床榻しんだいがあった。慧玲フェイリンは総毛だち、腕を振りほどく。


「おやめください、そんな」


「確実に血の繋がった子が要るのだ。……そうでなければ、薬が造れぬ」


 慧玲フェイリンは絶句した。

 皇帝はを知っていたから、後宮に通い続け、妃嬪たちに子を産ませることに執着したのか。理解した途端、全身の血が凍結した。嫌と悲鳴をあげ、慧玲は房室から逃げだそうとする。だが強い眩暈に襲われ、よろめいた。腕と脚が痺れ、息が熱を帯びる――毒にたいする飢えだ。


(なんで、こんな時に)


 雲に隠れているが、今晩は小望月こもちづきだ。さきに毒をのんでおかないかぎり、慧玲の飢えは丁度満月の前の宵から始まる。だから皇帝は今晩を選んで、慧玲を呼び寄せたのだ。


「案ずるな。事が終われば、すぐに薬をやろう」


 慧玲は懸命にもがき、震える脚で進む。皇帝はすぐには追いかけることはせず、鷹揚と瞳を細めた。翼が折れた雛を愛でて哀れむように。


(廻廊はだめだ。衛官がいる)


 衛官が助けてくれるはずもない。

 慧玲は震える指で掃きだしの窓をあけて、露台にむかった。視界を奪われるほどではないが、雪のまざった強い風が吹きつけてくる。露台バルコニー手摺てすりから身を乗りだして、慧玲は想像を絶する高さに竦んだ。

 皇帝の房室へやは宮廷の最上階にある。身を投げれば、確実に死だ。


「そなたは何処にも羽搏はばたけぬ。与えられた篭のなかで囀るほかにないのだ」


 皇帝が追いかけてきた。

 房室へやにも風が吹きこみ、鳥篭が激しく揺れる。耳障りな響きは絶望の鐘のように聴こえた。皇帝が慧玲の腕をつかむ。

 諦めかけたその時だ。

 細雪の帳を破って、蜂の群が皇帝に襲いかかった。

 青い毒蜂。こんな危険なむしを扱えるとすれば、ひとりだけだ。


「……ヂェン


 塔の屋頂から鴆が降りてきた。

 彼は冥漠めいばくを身に帯び、紫の双眸だけがごうと燃えている。鴆は慧玲を強く抱き寄せてから、皇帝に短剣をむけた。


「――触るな、彼女は僕のものだ」

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