95 白澤の薬の極致

佛跳牆フォーティァオチャンにてございます」


 皇帝の角は、すでに天を貫くほどだった。

 頭痛に苛まれてふらつきながら、皇帝は力を振りしぼるように食膳にむかう。薬はさいの角で造られたつぼに収められていた。

 まわりには高官、医官がそろい、固唾かたずをのんで解毒の是非を静観している。


「蓋を」


 皇帝は痛みに歯を食い縛りながら、慧玲フェイリンに命じた。


「大変に恐縮ですが、陛下に御取り願いたく」

「……ふむ」


 皇帝は不承ながら、蓋を取った。


 弾ける、というのではなく春峰から霞がたなびくような風情で、芳香が拡がる。香は鼻腔を通り抜け、緩やかに意識そのものを満たす。


 見張られた皇帝の瞳に豊かなる天地と海が映る。

 青天には雲ながれ、海は紺碧こんぺきに輝き、地にはあおが繁る。水天一碧すいてんいっぺきとまさにこのことだ。千紫万紅せんしばんこう咲き群れる大地では鹿が青草を食み、ひょうは夫婦で水を飲み、親熊が仔熊に乳を与えていた。安息たる命の営みだ。

 さいの背にとまっていた鳩が風をつかみ、舞いあがる。

 鳩は雲とたわむれながら遠ざかり、麗しき錦の鵬翼ほうよくを携えたとりの群が雲海を渡っていく。さながら華の宴だ。群に紛れていた白鳥が翼をやすめようと湖に降りたつ。狗魚サンショウウオたちが眠る湖からあふれた水は、海にそそぐ。

 銀濤ぎんとうを掻きわけ、魚の群が海に遊ぶ。さめもいれば、鯛がおり、それらを追い掛ける海豹あざらしもいた。緩やかに陽は落ちて望月もちつきが海からあがる。

 森羅万象は循環めぐる。

 壷中こちゅうの天地とでもいうべき夢想ゆめに誘われていた皇帝は息をのむ。香を嗅いだだけで、頭痛がやわらいでいたのだ。


白澤はくたくの薬とは……これほどのものなのか」


 皇帝はかみ締めるようにつぶやいてから、あらためて壷のなかを覗いた。

 眉根を寄せ、皇帝が静かに問い質す。


「薬どころか、何も入っておらぬではないか」


 慧玲フェイリンは静かに微笑する。


「どうか、匙を御持ちください」


 皇帝は疑いながら、匙を壷に挿しいれた。

 とぷ、と微かだが壷のなかで水が動き、確かに匙ですくいあげることができた。だが匙に乗せてなお、瞳には映らない。


「……重いな」


 皇帝は匙に口を寄せた。


 舌の先端に触れたのがさきか、旨みが弾ける。

 ふくよかな穀物のあまみ。海の塩を含んだ魚介の程よい潮のにおい。弾けてあふれるような脂。芳醇なる茸の旨み。


 四八珍しはっちん、締めて三十二。これらは唯の食材ではない。野趣あふれる珍味だ。

 熊の掌から龍骨、希少な茸、果ては動物の臓物きも――こうも多様なる薬種やくだねをひとつの鍋で煮ては、味が衝突して不和をきたす。鹿の群に豹を放てば、無残に喰い荒らしてしまうように。

 だが、この薬は総ての旨みが相殺そうさいされることなく、秩序のもとに生かされて・・・・・いる。


「なぜだ。なぜ、こうも穏やかなのだ」


「畏れながら」


 慧玲が低頭する。


「豹は鹿を喰らいます。さめ海豹あざらしを。ですが、豹が鹿を喰らうことで鹿が増え過ぎず、森は豊かになり、鱶が海豹を捕食すれば、魚が減り過ぎることもございません。喰らい喰われてこそ、す。それこそが薬の極致きょくちです」


「……そうか」


 皇帝は含むように薬を飲み、ひと筋の涙をこぼす。


「これが調和というものか」


 角が砕けた。

 ぼろぼろと、乾いた土塊つちくれのように崩れていく。皇帝は角のかけらを握り締めてから腰をあげ、窓の帳を取りはらった。

 黄昏の紅に燃える陽が房室へやに差す。皇帝は僅かに瞳を細めたが、苦痛はなく、安堵に息をついた。

 土の毒は、絶たれたのだ。


ツァイ 慧玲フェイリンよ」


 皇帝があらためて慧玲とむかいあった。


「刑を一時取りさげたあの時から、一年あまりが経った。そなたはひと度も毒と転ずることなく、薬であり続けた」


 春夏秋冬。其々の季節に事件があった。

 春はリー 雪梅シュエメイが毒に倒れて、春の宴を監修した。夏には夏妃たるフォンが皇后に毒を盛って死刑となり、後宮に火の毒が降った。秋は飢饉と疫に見舞われた集落に赴き、冬には麗 雪梅の御子が毒殺の危険にさらされた。

 慧玲フェイリンは薬をもって、その総てを解決してきた。


「よって、蔡 慧玲を無罪とする――」


 慧玲は望外の歓喜に言葉を絶して、静かに額をつけた。

 彼女の頚に絡みついていた死刑の縄が、今この時、完全に絶たれたのだ。

 廃姫はいきを蔑む高官たちは皇帝の宣言に顔をみあわせ、だがこの度ばかりは反論もできず、拝礼する。



 …………



 斯くして、宮廷に新春がきた。

 祝賀しゅくがの音楽が絶えることなく続き、春節しゅんせつにふさわしい喧騒が御殿みどのを擁した。久かた振りに催された宴で職官たちはそろって酔い、歓喜に湧く。


 だがその晩を境に、今度はヂェンが宮廷から姿をくらませた。




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 毎度後宮食医の薬膳帖をご愛読いただき、ありがとうございます。

 ひとまず、ここで第五部の前編の連載を終了とさせていただきます。後編の連載は四月初旬からとなります。

 ちょっとだけ休憩して、またすぐに連載を再開いたしますので、フォローは外さずに今後とも応援いただければ幸いです。

 皆様の「感想」「♡」「☆」「レビュー」がたいへん励みになっております。こころから御礼申しあげます。

 

 また、書籍化作業も順調に進んでおります。

 最高のかたちで読者様の本棚に御届けできるよう、努めて参ります!


 余談ではありますが、現在「カクヨム」にて「後宮の女官占い師はウラを糾って謎を解く~行動心理の分析は推理に入りますか?」という同ジャンルの小説を投稿致しております。「後宮食医の薬膳帖」を御愛読くださっている読者様であれば、こちらもきっと楽しんでいただけることとおもいます。

 宜しければ、「後宮食医の薬膳帖」連載再開までの期間にこちらも覗いていただければ嬉しいです。

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