93 毒と争うのは患者

 物心ついた時から、慧玲フェイリンは薬でありたいと望み続けてきた。だがこれほどまでに強く望んだことがあっただろうか。


藍星ランシン、かならず助けるから)


 離舎りしゃまで藍星ランシンを運びきった慧玲フェイリンは、調薬に取りかかった。

 ヂェンが扱う毒蟲どくむしは多様だ。造られた特殊な毒蟲もいれば、有り触れたむしもいる。藍星を襲った蟲は紅蜈蚣べにむかでという種だった。偶々霊廟れいびょうを通りがかったものが襲われても疑われないよう、敢えて何処にでも棲息する毒蟲をつかったのだ。

 紅蜈蚣べにむかでの神経毒は致死毒ではない。問題は刺されすぎたことだった。藍星は刺された腕から肩までが真っ赤に腫れあがって熱をもち、酷い有様だ。

 だが、解毒のために必要なものは幸い、そろった。

 慧玲は袖からヂェン烟管キセルを取りだす。


(この煙草葉たばこばは、蟲の毒を解毒する薬草だ)


 人毒じんどくを備えているヂェンには、毒にたいする免疫がある。だが慧玲フェイリンと違って、毒がいっさい効かないというわけではないのだ。この煙草を喫っているのがその証だ。毒を帯びたむしに触れ続けるため、彼は日頃から烟管キセルを吹かしているのだ。

 烟管から葉を取りだし、鍋で煮だす。湯があざやかな紅にそまった。


(ただの煙草だったら毒だけれど、これは薬草。茶葉のようなものだ)


 鍋に砂糖をいれ、牛骨と豚皮を乾かして挽いたにかわをいれる。さっとまぜてから砕いた氷をいれ、さらに匙でまぜた。とろみがついたところで氷を取りだして杯に移す。


(後は雪のなかに埋めるだけだ)


 五分ほど経っただろうか。雪の底から取りだされた薬は、ぷるぷるにかたまっていた。

 後は生奶脂なまクリームを垂らせば、できあがりだ。

 声を掛けると、藍星はすぐに瞼をあげた。


「……待って、ました。薬、できたんですね」


「調いました。薬紅茶くすりこうちゃ果凍ゼリィです、どうぞ」


 ひんやりとした果凍を匙ですくって、慧玲は藍星に差しだす。

 透きとおった紅の果凍ゼリィに乳が絡む。縞瑪瑙しまめのうを想わせるきらめきだった。

 だが藍星にそれが視えているかどうかはさだかではなかった。神経毒は一時視神経を麻痺させる。眩暈、動悸、強い嘔気おうきもあるはずだ。


「食べられそうですか」


「食べ、ます。吐きそうですけど……なんとか」


 最後の力を振りしぼるようにして、藍星ランシンが匙をふくんだ。


「あ、なんだか、風のかおりを食べている、みたい……あまくて、さわやかで……ふふ、慧玲様の薬の御味だ」


 心地よいのか、藍星はうっとりと瞳を細めた。

 蜈蚣むかでの毒は熱で分解されるという特徴がある。蜈蚣に刺されたときは、まず熱めのお湯をかければよい。だが、刺されてから時間が経ってしまうと、今度は温めることで毒が拡がってしまう。

 だから熱を取りつつ、毒にだけ火の薬をぶつけるのだ。


薬紅茶くすりこうちゃは火の薬だ)


 また、蜈蚣は強い植物の香を嫌がる。ひのき樟脳しょうのう薄荷はっか等が特によいが、この特殊な茶葉の香も蜈蚣除けになる。

 そしてこうとは食のさきがけだ。嗅覚に働きかける香こそが、食物の旨みを最大限に伝達する。風邪をひき、鼻が麻痺している時に味を感じないのはそのためである。裏がえせば、食欲がなくとも嗅覚さえ刺激すれば、喉を通る。


慧玲フェイリン様、痺れがとれて、呼吸ができるようになってきました。視界も……まだぼやけてますけど、慧玲様が側におられるのはわかります」


「よかった。まもなく解毒できますからね」


 慧玲は安堵の息をつき、薬を食べ終えた藍星ランシンの頭をなでた。


「……よく頑張ってくれましたね」


「わ、やだ。泣きそうになるじゃないですか」


 藍星が瞳を潤ませ、思いきり慧玲に抱きついた。抱き締めてきた腕の力が次第に抜け、藍星は眠りに落ちる。

 薬師は毒と争うものだが、それは患者も同様だ。

 解毒するのには力を要する。


 起きる頃には、完全に毒が抜けていることだろう。

 棉被かけぶとんを掛け、ひと息ついたところで、離舎の外が騒がしくなりはじめた。窓から覗けば、衛官えいかんたちが離舎を取りかこんでいる。


「蔡 慧玲、ここにいるのは解かっている! 直ちに――」


「そのように声を荒げずとも聞こえております」


 慧玲は表に踏みだす。まるで罪人扱いではないか。


「なぜ失踪した」


「誘拐され、捕らわれていました。ミン 藍星ランシンに助けられ、帰還したところです」


「誘拐だと? 誰がそのようなことを」


「解かりかねます。気絶しているうちにさらわれ、霊廟に監禁されていたので、私を誘拐した者とは一度も接触しておりません」


 慧玲は咄嗟に嘘をついて、鴆をかばった。

 嘘は毒だ。これまで彼女は一度たりとも人を謀ったことはなかったというのに、自身でも理解できない感情が胸の裡で動いていた。


「それよりも何日経ちましたか」


「……四日だ」


 そんなに経っていたのか。薬種は乾物が殆どであるため、傷むことはないだろうが、毒に侵されてずいぶんと経つ。いよいよに皇帝の命が危うい。


「取り調べは後ほど。宮廷の庖房ちゅうぼうまで連れていってください、調薬を始めます」


「失踪の仔細が解からぬうちは、調薬をさせるわけには」


「皇帝陛下の御命が最優先です。……違いますか」


 衛官たちが顔を見あわせる。慧玲は毅然とした態度で続けた。


「毒とは一刻を争うものです。そして地毒ちどくを絶てるのは薬の一族たる私だけ。通していただければ、かならずや解毒致しましょう」


 よどみなく紡がれる言葉に誰も異を唱えることができなかった。最先頭にいた衛官が低頭する。


「承知した。――食医を、宮廷に」


 衛官たちが慧玲フェイリンを取りまき、宮廷まで連れていった。後宮と宮廷を繋ぐ橋を渡るとき、微かに嗅ぎなれた烟管キセルの香がしたが、慧玲は振りかえらずに進む。


 毒と薬は相いれないものだ。いかにあろうとも。

 重ならぬからこそ、薬は薬で、毒は毒であれるのだ。


 孤独に誇らしく。

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