92 皇帝は金糸雀に冀う

 春節しゅんせつだというのに、宮廷は静まりかえっていた。

 皇帝の身に障ってはならないということで音楽は奏でられず、紅の飾りつけだけが虚しく風にはためいている。

 皇帝自身は房室へやから姿を現すことはなく、医官だけが順に房室へと訪れては、項垂れて退室するという繰りかえしだった。

 ディアオ皇帝は日増しに激しくなる頭痛で衰弱していた。

 額の角はゆがみ、枝わかれしながら伸び続けている。

 この頃は窓から日が差すだけでも頭が割れそうに痛むため、房室へやの窓にも帷をかけていた。横になっているだけでも頭蓋ずがいが軋んで、ほとんど眠ることができず、かといって身を起こせば、角の重さに頭が傾ぎ、激痛と強い眩暈をともなう。


「もっと、強い薬はないのか……」


「……残念ながら、陛下」


「もうよい、さがれ」


 皇帝が息絶え絶えにいう。

 宮廷で最も優秀な典医てんいでも万策がつきていた。

 薬の量は増え続けているが、どれを服しても地毒には効果がない。皇帝はいらだち紛れに卓にならべられた薬を払い落とす。


ツァイ 慧玲フェイリンは何処にいった……なぜ、見つからぬのだ」


 蔡 慧玲が失踪してから、四日が経っていた。

 誘拐されたのか、あるいは――最悪の事態が頭に過ぎる。皇帝が先帝に毒を盛ったことを慧玲に知られたのではないか。いや、有り得ないと皇帝は頭を振った。今、あの時の真実を知っているのは皇帝自身と皇后だけだ。


「気が弱っているのだな……」


 皇帝は呻きながら、床榻しんだいに身を横たえる。


「……陛下」


 車輪の音にあわせて鈴のような声が聴こえ、皇帝は声をあげた。


欣華シンファ、きてくれたのか。側に」


 欣華皇后が微笑むだけでも皇帝は暗い房室にひと筋の光が差したような錯覚を起こす。欣華は輪倚くるまいすを転がして皇帝の床榻しんだいに寄りそった。


「可哀想ねえ、歌でも歌ってあげましょうか。あなたのために」

「ああ、歌ってくれ……」


 欣華シンファ皇后の動かない脚に頬をすり寄せ、皇帝はまぶたを瞑る。

 欣華は頷き、彼の髪をなでながら歌いはじめた。花唇くちびるから透きとおるような旋律があふれ、房室へやに満ちる。金糸雀かなりあでもこうも綺麗な声では囀るまい。


「金糸雀、か」


 皇帝は苦痛を紛らわせるように、細々と語りだす。


「昔の事だが、金糸雀カナリアを飼っておった。脚が折れたもの、翼が育たなかったものばかりを選んで、迎えた。禽屋とりやにはずいぶんな物好きだと想われていたであろうな。動かぬ脚でも、舞いあがれぬ翼でも、篭のなかで囀るさまは実に愛らしかった。餌をやったり、豪奢に籠を飾ったりしていると、ひと時でも心が癒されたものだ。われは……幼い時から宮廷ではうとまれもので、誰からも必要とはされなかったが……金糸雀たちは違った。血統も才能も関係なく、吾を必要としてくれた」


 瑠璃るりで飾った篭を造らせ、遠いところから希少な果実を取り寄せた。愛する金糸雀のためには、如何なる物も惜しまなかった。

 歌をいったんやめて、欣華シンファが微笑する。


「あら、だったら今はわたしがあなたの金糸雀なのねえ」


 肯定するように皇帝はまなじりを緩めた。


「……金糸雀カナリアたちのために時を割き、財を投じておるとな、奇妙なことに金糸雀を飼っているようで、われのほうが金糸雀に飼われているような心地になるのだ――それが、吾はたまらなく好きだった」


 他者には理解できぬであろう享楽に彼は息を洩らした。


「だが、そなたほどに美しい金糸雀は、いなかった」


 彼女に逢ってから、彼のせかいは変わった。


 幸福とはなにか。愛とはなにかを知ったのだ。


 彼は華の宮にいるほとんどの妃嬪のもとに渡り、ねやをともにしたが、欣華シンファだけは抱いたことがなかった。彼女にたいする愛は、そのような欲ではない。

 皇帝はしばらく歌に聴きほれていたが、脈絡もなくぽつといった。


「日蝕の時に吾は視た――麒麟きりんの姿を、この眼でな」


 信じ難い言葉に欣華皇后が黙った。


「解かっている。そのようなことが、あろうはずがないのだ。索盟スォモンを処刑した晩、麒麟は確かに死に絶えたはずなのだから」


 ディアオ皇帝は知っていたのだ。麒麟が索盟スォモンに殉じ、雕を認めなかったことを。

 だがそれは終わったことだ。


麒麟きりんの骸は」


 皇帝は強張る指先で欣華の唇に触れる。


「そなたが喰らってくれた」


 艶やかに濡れた唇をなぞってから、皇帝の指が離れる。


「そうよ。でもね、あれは抜殻ぬけがらだったの。麒麟きりんの魂は鳳凰ほうおうに輪廻して、ツァイ 慧玲フェイリンのなかで眠っているわ」


「ならば、これは祟りなのか。吾は、死ぬのか」


 欣華シンファ皇后は睫毛をふせて、微笑を重ねた。


「祟りなどなくとも、にんげんは死に絶えるものよ」


「そうか。……そうだったな」


 死とは等しいものだ。

 有能であろうと、無能であろうと、最後には誰もがしかばねとなって、土に横たわる。驕れる者たちは死に恐怖して、死を遠ざけようと試みた。ある者は水銀を飲み、ある者は仙人を捜した。だが死が総てをたいらげるという現実は、いつ如何なる時も雕皇帝の心を慰撫してきた。


「死は、よい。だが苦痛は……嫌だ」


 魂が壊れてなお、命だけを繋ぎ続ける――先帝の死に様を想いだして、雕皇帝はぞっとした。彼がそのような地獄の毒を盛ったにもかかわらず。或いはだからこそ、あんな最後だけは避けたいと望む。


欣華シンファよ、そなたに頼みがある」


「なにかしら」


「吾が息絶えることがあれば、そのときは」


 神にでも縋るように声の端を震わせて。


「この身をすべて、喰らってはくれまいか」


 紅の舌を僅かに覗かせ、花唇くちびるが綻ぶ。皇后は嬉しそうに身をかがめて、皇帝の額に接吻を落とした。あるいは頭から喰らいつくかのように。


「いいわ、わたしが喰べてあげましょう。魂まで残らず、ね」

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