【コミカライズ連載開始！】後宮食医の薬膳帖 廃姫は毒を喰らいて薬となす【書籍版好評発売中】

９１ 薬の廃姫に命を捧げる

「慧玲（フェイリン）、様……？　ど、どちらにおられるんですか！」

「藍星（ランシン）！　私はここです！」

　声を頼りに捜せば、壁の低いところに枯草で埋もれかけた横窓があった。藍星は窓を覗きこみながら、確認する。

「……お、おばけじゃないですよね」

「脈拍はありますし、呼吸もしていますよ」

「ああ、よかった、よかったです！」

　藍星（ランシン）は安堵して、泣き崩れた。

　窓には錆びついた鉄格子がはめられていたが、壊せそうだ。幸いなことに慧玲（フェイリン）は華奢なので、窓を壊して縄でも垂らせばあがれる。藍星は石を拾い、窓を壊そうと打ちつけだした。その時だ。

　蜈蚣（むかで）の群が這いだしてきた。

　蟬の抜殻だけでも気絶する藍星だ。喉が裂けそうなほどに絶叫する。

「な、なにがあったんですか、藍星！」

「ぎゃあああああぁぁぁ、あわわわわっ、む、蜈蚣（むかで）……蜈蚣が！」

「蟲（むし）……」

　慧玲の声が緊張で硬くなった。

「藍星（ランシン）、それは毒の蟲（むし）です。すぐにそこから離れて、宮廷に救援をお願いしてください。わかりましたね？」

「で、でも」

　藍星が言葉をつまらせる。酷い胸騒ぎがしたのだ。

「今この場を離れたら、慧玲（フェイリン）様とはもう逢えなくなる、そんな予感がするんです……死ぬまで後悔することになりそうな」

　たいせつな人を喪うのはもうたくさんだと藍星は強く想った。

　藍星は震えながら、窓に絡みつく蜈蚣ごと潰すように石を振りおろす。錆びているところがぼろぼろと崩れた。後は引っ張れば壊せそうだ。

「ううっ、刺された後でやばそうだったら薬を調えてくださいね！」

　藍星は腹を括って犇（ひし）めく蜈蚣（むかで）の群に腕を突っこむ。蜈蚣の群が藍星に群がって、いっせいに毒の牙を突きたてた。燃えるような激痛が弾ける。続けて、血管という血管が膨張するような、あるいは縮んでいるような、言葉にし難い虚脱感に襲われた。

「藍星（ランシン）！　どうか、やめてください！　毒によっては命の危険だって」

「だいじょうぶです。私はあの時からずっと、慧玲様に命を捧げていますから！」

　藍星は力を振りしぼって、鉄格子を引っ張った。腕から肩のあたりまで蜈蚣（むかで）があがってきているが、藍星は無我の境地に達している。

「女は根性おおぉぉぉ！」

　鉄格子が勢いよく外れた。

「やった、後は……」

　藍星は蜈蚣の神経毒でふらつきながら、繁みにあった藤の蔓を垂らす。蔓をつかって、慧玲が無事に窓から外にでた。

「よかった、慧玲（フェイリン）……さ、ま……」

　精魂つき果て、藍星は足許から崩れるように倒れた。

　毒がまわって視界もぐにゃぐにゃだ。慧玲が懸命に蜈蚣（むかで）を払いのけてくれている。慧玲様まで刺されてしまうとおもったが、身動ぎひとつできなかった。

「直ちに解毒します。離舎（りしゃ）まで持ち堪えてください」

　慧玲（フェイリン）は藍星を背に担いで、雪の残った林を歩きだす。誰かに背負われるのなんて、いつ振りだろうかと藍星（ランシン）は想いを馳せる。藍星が幼かった時、父親が肩車をしてくれた。お祭りの晩だったか。

　今となれば、遠い幸福だ。

　藍星は先帝に逢ったことはない。

　父親が語ってくれたかぎりでは、強く聡明な皇帝だったという。だが先帝に忠誠を誓っていた藍星の父親を、先帝は塵（ごみ）でも捨てるように処刑したのだ。

「慧玲、様……が、皇帝だったらよかったのにって、いったじゃない、ですか。今でも想っています……だって、慧玲様は……」

　優しいからと、震える唇で言の葉を落とす。

　知識があって敏いからでも。強いからでもない。

　藍星からすれば、そんなものはどうだっていい。皇帝に必要なものはただひとつ。等しく誰かを想うことのできる優しさだ。

「皇帝、というのは、民のための……薬であるべきだと――――」

　藍星が痺れる喉で懸命に声を紡ぐ。

「そうよ。だから、ぜったいにあなたを死なせるものか。……藍星、どうか、もうしばらく毒と争（たたか）ってください。私も一緒に争いますから」

　ああ、この声だと藍星は想った。

　優しさとは変わらぬことだ。

　緑青（ろくしょう）の毒に蝕まれた時のことを想いだす。命を諦め、死を望んだ藍星にたいして、医師である彼女のほうが哀願（あいがん）の声をあげたのだ。

　生きたいといってください――と。

　あの言葉こそが最たる薬だった。

　だからこそ、藍星は薬（くすり）の廃姫（はいき）に跪き、命までも捧げたのだ。