90 藍星はあるじを捜す

 ツァイ 慧玲フェイリンの失踪は後宮を酷く騒がせた。

 三日三晩、捜索されたが、手掛かりはない。

 宮廷では皇帝の解毒という重責に臆したのだと謗られ、皇帝にかんする事情を知らない後宮では食医が何らかの重罪を犯して遁逃とんとうしたという噂が拡がりはじめていた。


「なんでも皇后様の御脚おみあしを治そうとして失敗したとか」

「私は皇帝陛下に毒を盛ったと聞いたわ。渾沌こんとん姑娘むすめだもの。それくらいのことは、やりかねないわよね」


 妃妾たちが口々に噂を振りまいている。

 後宮において、噂とは華たちの娯楽だ。蝶とたわむれるように噂を振りまいていた妃妾きしょうの頭上に水が振りそそいだ。妃妾たちが一斉に悲鳴をあげる。


慧玲フェイリン様は! そんなことはぜったいになさいません!」


 空になった水桶をかついで、妃妾の背後で仁王だちしていたのは藍星ランシンだった。彼女は怒りに震えながら、声を荒げる。


「今の言葉、取り消してください!」


 妃妾は髪から水滴を垂らして、藍星ランシンにつかみかかった。


「位の低い女官のくせにこんなことして許されるとでも……」


慧玲フェイリン様は患者を残して、わが身の可愛さに逃げだすような御方ではありません! あの御方はいつだって薬に命を賭けておられます」


 確かにこの頃、慧玲はずいぶんと思いつめていた。

 鍋にこげつかせてしまい、落胆していた背は心細げで、風が吹けば崩れてしまいそうな危うさがあった。でも、だからといって、彼女がなすべきことを投げだすとは考えられない。ぜったいになにか、訳があるはずなのだ。


「まして皇帝に毒を盛ったなんて、そんな侮蔑は許しませんから!」


「な、なによ! 後宮の食医だなんだといったところで罪人の姑娘むすめじゃない! 罪人が医官になっている段階で異常だったのよ!」


「っ……」


 怒りにかられた藍星ランシンが咄嗟に拳を振りあげた。


「……やめておけ」


 後ろから腕をつかまれ、藍星が振りむけば、假面具かめんをつけた長身の宦官がたたずんでいた。


「貴方は確か、失っ礼な宦官……じゃなくて、春妃しゅんきつきの」


卦狼グァランだ」


 彼はやれやれと言いたげに名乗った後、妃妾たちを睨みつけた。


ツァイ 慧玲フェイリンの罪を一時免じたのは皇帝陛下だ。皇帝陛下の御意に不満があるんだったら、俺が直訴の機会を設けてやるが、どうする?」


 妃妾たちが縮みあがる。


「え、あ……そ、そんなつもりでいったわけじゃ」


虚言きょげんろうするのは程々にしたほうが身のためだ。後から責任を取れるなら別だがな。ほら、散れ」


 妃妾たちは捨て台詞もいえずに蜘蛛の仔でも散らすように離れていった。


「……食医が失踪したそうじゃねェか」


 卦狼グァランにいわれて、藍星ランシンは怪訝に眉を寄せた。

 藍星は卦狼の素姓を知らない。水毒事件の首謀者だったことはおろか、慧玲に命を助けられたことも教えられていないため、卦狼がなぜこうも踏みこんでくるのか、藍星には理解できなかった。

 第一印象が最悪だったこともあって、藍星は狼に睨まれたうさぎのように警戒する。


「俺を信頼しろとはいわねェよ。だが食医を捜すんだったら、これをつかえ」


 卦狼グァランはそういって、きらきらとした物を藍星に渡す。

 鎖の先端に円錐型の鉱物がついた振り子だ。透きとおった青い水晶のなかでは、雫が眠っている。振ると微かだが、水の調べが聴こえた。


「これ、なんですか?」

せ物捜しのための振り子だ。指に掛け、垂らして食医のことを考えれば、彼奴あいつのいるところまで導いてくれるはずだ」


 藍星ランシンがこてんと頭を傾ける。


「おまじないみたいなものですか?」

「呪いよりも確実なもんだ」


 正確には水脈などを捜すときにもちいられたものだが、卦狼は不要なことはいっさい語らなかった。面倒だったのだろう。


「お前は頭はいかにも悪そうだが、勘はよさそうだからな。適任だろ」

「え、それって殴ってもいいってことですか」


 藍星がにこにこして、拳骨を握りなおす。


「はは、……勘弁してくれ」

「冗談はともかくとして……なんで、助けてくれるんですか」


 藍星が素直に訊ねれば、卦狼グァラン假面具かめんの裏で微苦笑した。


「食医には、ひとかたならぬ恩があるもんでな」


 恩をけたのは藍星も同様だ。だが単純には患者として助けてもらったから、というだけではなく、藍星が命を賭けるに値するものは、ほかにあった。


「……だったら、もっとちゃんと助けてくれればいいのに」


 藍星がぼそりといえば、卦狼は今度こそ呵々かかと声をあげた。


「悪りぃな。俺が命を賭けたい姑娘おんなは他にいるからよ」


 彼は肩を竦めて、背をむける。

 春妃しゅんきのもとに還るのだと藍星ランシンにも解かった。


 卦狼がいなくなってから、藍星は教えられたとおり、振り子の鎖を指に絡めてみた。


「慧玲様のところに導いてください…………こんなかんじでいいのかなあ」


 何度か唱えているうちに振り子が動きだした。まさか、動くとはおもっていなかった藍星は息をのみ、さきほどよりも真剣に念ずる。

 振り子は西南の方角を指した。


「そっちに慧玲様がおられるんですね」


 藍星は振り子に導かれるままに移動する。

 夏の宮を越え、籔を踏み、藍星がたどりついたのは霊廟れいびょうだった。石を積みあげて築かれた霊廟は、古墳のような物々しさを漂わせていた。


 後宮の霊廟はいわくつきだ。

 皇帝に冷遇され、帝族の霊廟に入れなかった皇后が埋葬されたとか。心が壊れて一族から見放された妃嬪の墓だとか。碌な噂がなかった。さもありなんと感じられるほど霊廟一帯はうす暗く、奇妙に静まりかえっている。


「こわ……っ、え、真昼からおばけとかでませんよね? なんでよりによって、こんなところなんですかぁ」


 藍星はべそをかきながら霊廟の扉を捜す。

 だが、階段をあがったところに設けられた扉は閉ざされていた。裏から侵入できないかと霊廟の壁を確かめてまわっていると、振り子が地を指すようになった。


「……えっ、やだ、まさか、慧玲様……死んでないですよね……」


 藍星が瞳いっぱいに涙をためて、叫び声をあげる。


「慧玲様! 慧玲様! やだやだ! 死なないでください!」

「……その声は、藍星?」


 確かに慧玲の声が聴こえた。

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