83 毒の嵐は吹き荒ぶ
眠れない晩が続いていた。
真冬の月は透きとおっている。
調薬は神経を摩耗する。充分な睡眠が必要だとわかってはいても、
「あ……」
指が滑って、漢方の生薬を箱ごと落としてしまった。
箱の蓋が外れ、紫の
「皇帝が
背後から嘲笑を絡めた声が降ってきた。
「
息をのみ、振りかえれば
「貴女が調薬するのか」
「私は
「できるのかな、貴女に」
慧玲の調薬がいかに優秀であるかを知りつくしている彼の言葉だから、よけいに呪詛じみて耳に残る。
「今の皇帝は先帝の兄だが、
「陛下を侮辱するつもり」
「侮辱、ねえ……事実だろう」
鴆の
「貴女の母親はさぞや、
風にあおられるのは火があるからだ。
「そうね。母様は陛下のことを怨んでいたはず」
皇帝だけではない。
彼女は愛するひとを奪われた時にすべてを憎んだ。
だから地毒の禍が吹き荒れると知っていながら命を絶った。
「貴女は、怨んでいないのか」
「怨まないはずがない」
嘘はつかない。嘘は、毒になるから。
「でも、陛下には御恩があるの」
青ざめた唇で
「いかなる理由があれど、父様は
いつだったか、内緒話を打ち明けるように「剣を振るうのは好きではないのだ」と苦笑していた伯父の眼差しが過る。臆病者だとまわりからけなされても、こまったように頬を掻いて笑っている程に優しい男だった。
それでもなお、
「怨みを遙かに凌ぐ恩義があるのよ」
それは命を捧げるに値するものだ。
だが
「――その皇帝陛下が、先帝に毒を持った張本人だったとしても、か」
重い衝撃があった。毒蜂に心臓を貫かれたような。
瞳を見張って、慧玲は緩々と頭を振る。悲鳴はあがらなかった。かわりに細い喘鳴が喉から洩れた。
「嘘……そんなはずがない、だって……」
想いだせるかぎり、
それなのに、毒を盛るはずがないと。
だが、
「これまで一度も現帝を疑わなかったのか? 貴女ほどに敏い
慧玲は鴆を論破しようと凍てついた思考を廻らせる。だが、想いつかない。どんな言葉を繰っても矛盾になる。
(ああ、そうね。鴆がいうとおりだ)
先帝に毒を盛れるとすれば、
先帝は、兄である彼に全幅の信頼を寄せていたから。
察しはついていた。だが、彼女はこの時まで、雕皇帝のことを疑うまいと無意識に鍵をかけていた。それは唯一残った肉親を愛していたからではなく。
ただ、彼女が薬であり続けるために。
「それが事実だとして」
握り締めた掌に爪を喰いこませ、慧玲は燃えあがる激情を律する。まだ声の端がみっともなく震えていたが、構わずに続ける。
「おまえは、なぜ、それを知っているの」
誰にも触れられたくなかったところに踏みこんできた彼に、敢えて踏みこみかえす。さながら剣戟。身を斬られながら反撃するような。
「解ってはいたけれど、おまえは唯の毒師じゃないね。後宮にきたのも、私を暗殺するという依頼を受けたから、だけではないでしょう」
彼の調毒は卓越している。一縷の綻びもなく、
雪梅嬪が毒を盛られたとき、他の毒師が調えた毒と
(彼は宮廷に服っていた毒師の
鴆は因縁あって、宮廷にきたのだ。
先帝が毒師との関係を絶ってから毒師の一族は離散したという。鴆の眸には時々怨嗟の影がちらつく。人毒を宿すにいたった経緯からしても、一族が苦難を強いられたであろうことは想像がついた。
(これまでは、彼の素姓を捜ろうとは想わなかった。知る権利はないと。けれど私たちは、ついにここまできてしまった)
慧玲は薬棚の裏に隠しておいた物を取りだす。春の妃である
「これは、おまえの物でしょう」
麒麟紋が彫られた
鴆は瞳孔を拡げ、微かに舌を打った。慧玲に渡っていたとは予想外だったはずだ。だが動揺を覗かせたのは一瞬で、観念して肩を竦める。
「そこまで知られては仕様がないな。貴女には教えてやるよ」
「魂を壊す毒というものを知っているか、といったね――現帝が先帝に盛った毒は、僕が調毒したものだ」
慧玲は言葉を絶する。息まで張りつめ、視線を彷徨わせた。
「正確には僕が毒そのものだった」
「おまえが毒? でも、先帝が盛られたのは
「人毒の造りかたは教えただろう」
十三年掛けて多種多様な毒を取りこみ、
「人毒ができあがってすぐに動脈から血潮を搾ると、
「血縁者に盛るのさ。縁は遠くとも構わない。血と毒が雑ざった時、この毒は真の効果を発揮する。魂を蝕み、破壊するという
「血縁……まさか」
後宮は噂が咲き群れる宮だ。風聞のなかには現帝の
「ご明察だね」
鴆は口の端をあげた。
「僕が現帝である
動揺して動けずにいる慧玲の指から
彼がこれまでたどってきた、毒の地獄を。
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