83 毒の嵐は吹き荒ぶ

 眠れない晩が続いていた。

 真冬の月は透きとおっている。慧玲フェイリンは月を仰ぎながら、薬碾やくてんを磨いていた。

 調薬は神経を摩耗する。充分な睡眠が必要だとわかってはいても、藍星ランシンが帰って静かになると考えてもどうにもならないことばかりが頭を巡った。薬碾も綺麗になってしまい、今度は百味箪笥ひゃくみたんすの整頓を始める。


「あ……」


 指が滑って、漢方の生薬を箱ごと落としてしまった。

 箱の蓋が外れ、紫のたまを想わせる毒の実が転がる。拾い集めようと身をかがめたところで、誰かの沓底くつぞこがそれを踏みつぶした。潰された実から紫紺しこんの毒が滲む。


「皇帝が毒疫どくえきで倒れたそうだね」


 背後から嘲笑を絡めた声が降ってきた。


ヂェン……いつからいたの」


 息をのみ、振りかえればヂェンがたたずんでいた。鈍い紫の眼睛がんせいを細めて、毒々しい侮蔑を湛えている。秀麗な貌だからこそ強く悪意を感じる。


「貴女が調薬するのか」


「私は白澤はくたくだからね」


「できるのかな、貴女に」


 ヂェンは嗤った。

 慧玲の調薬がいかに優秀であるかを知りつくしている彼の言葉だから、よけいに呪詛じみて耳に残る。


「今の皇帝は先帝の兄だが、妾腹しょうふくだったとか。妃嬪だったらまだしも、身分の低い御妻ぎょさいに産ませたそうじゃないか。ほんとうならば、皇帝になど即位できるはずなどなかった。なのに壊れた先帝を処刑したことで、まんまと皇帝の倚子いすを得た」


「陛下を侮辱するつもり」


「侮辱、ねえ……事実だろう」


 鴆の舌鋒ぜっぽうは毒の嵐だ。まともに受けてはならないと理解しているのに。


「貴女の母親はさぞや、現帝げんていを怨んでいることだろうね」


 風にあおられるのは火があるからだ。緑眼りょくがんの底には昏いほのおが絶えず、燃えている。慧玲は重く息をついてから、敢えて冷静に肯定した。


「そうね。母様は陛下のことを怨んでいたはず」


 皇帝だけではない。

 彼女は愛するひとを奪われた時にすべてを憎んだ。姑娘むすめたる慧玲フェイリンのことすら。

 だから地毒の禍が吹き荒れると知っていながら命を絶った。渾沌こんとんと称された先帝と同様に、白澤の女も今際に毒をいたのだ。


「貴女は、怨んでいないのか」


「怨まないはずがない」


 嘘はつかない。嘘は、毒になるから。


「でも、陛下には御恩があるの」


 青ざめた唇で慧玲フェイリンは言葉を紡いだ。他でもない自身に言い聞かせるように。


「いかなる理由があれど、父様は渾沌こんとんとなって毒をまき散らした。無実の罪で処刑されたものは後を絶たず。誰かが制す必要があった。たとえ父様の命を絶つことになっても。めてくれたのは皇帝陛下だった」


 いつだったか、内緒話を打ち明けるように「剣を振るうのは好きではないのだ」と苦笑していた伯父の眼差しが過る。臆病者だとまわりからけなされても、こまったように頬を掻いて笑っている程に優しい男だった。

 それでもなお、ディアオ皇帝はみずから剣を取り、先帝の悪虐をただしたのだ。


「怨みを遙かに凌ぐ恩義があるのよ」


 それは命を捧げるに値するものだ。

 だがヂェンは理解を表すどころか、哀れむように瞳をすがめた。僅かな沈黙を経て、彼は断頭斧のように言葉を落とした。


「――その皇帝陛下が、先帝に毒を持った張本人だったとしても、か」


 重い衝撃があった。毒蜂に心臓を貫かれたような。

 瞳を見張って、慧玲は緩々と頭を振る。悲鳴はあがらなかった。かわりに細い喘鳴が喉から洩れた。


「嘘……そんなはずがない、だって……」


 想いだせるかぎり、ディアオ皇帝は先帝のことを愛していた。優秀な弟を持てたことが自身の誇りだとまで語っていたのだ。

 それなのに、毒を盛るはずがないと。

 だが、ヂェンに嘘をついている素振りはなかった。


「これまで一度も現帝を疑わなかったのか? 貴女ほどに敏い姑娘おんなが? ありえないね、貴女は解っていたはずだ。でも考えまいとしていたんだろう」


 慧玲は鴆を論破しようと凍てついた思考を廻らせる。だが、想いつかない。どんな言葉を繰っても矛盾になる。


(ああ、そうね。鴆がいうとおりだ)


 先帝に毒を盛れるとすれば、ディアオ皇帝だけだ。

 先帝は、兄である彼に全幅の信頼を寄せていたから。

 察しはついていた。だが、彼女はこの時まで、雕皇帝のことを疑うまいと無意識に鍵をかけていた。それは唯一残った肉親を愛していたからではなく。

 ただ、彼女が薬であり続けるために。


「それが事実だとして」


 握り締めた掌に爪を喰いこませ、慧玲は燃えあがる激情を律する。まだ声の端がみっともなく震えていたが、構わずに続ける。


「おまえは、なぜ、それを知っているの」


 誰にも触れられたくなかったところに踏みこんできた彼に、敢えて踏みこみかえす。さながら剣戟。身を斬られながら反撃するような。


「解ってはいたけれど、おまえは唯の毒師じゃないね。後宮にきたのも、私を暗殺するという依頼を受けたから、だけではないでしょう」


 彼の調毒は卓越している。一縷の綻びもなく、神韻縹緲しんいんひょうびょうという言葉がふさわしい。

 雪梅嬪が毒を盛られたとき、他の毒師が調えた毒とたたかって、鴆の毒との違いを強烈に思い知った。


(彼は宮廷に服っていた毒師のえいに違いない)


 鴆は因縁あって、宮廷にきたのだ。

 先帝が毒師との関係を絶ってから毒師の一族は離散したという。鴆の眸には時々怨嗟の影がちらつく。人毒を宿すにいたった経緯からしても、一族が苦難を強いられたであろうことは想像がついた。


(これまでは、彼の素姓を捜ろうとは想わなかった。知る権利はないと。けれど私たちは、ついにここまできてしまった)


 慧玲は薬棚の裏に隠しておいた物を取りだす。春の妃である李紗リィシャから預かった物だ。


「これは、おまえの物でしょう」


 麒麟紋が彫られた玉佩ぎょくはいをつきだす。

 鴆は瞳孔を拡げ、微かに舌を打った。慧玲に渡っていたとは予想外だったはずだ。だが動揺を覗かせたのは一瞬で、観念して肩を竦める。


「そこまで知られては仕様がないな。貴女には教えてやるよ」


 細雪ささめをはらんだ風が吹きつける。すきま風で燭火しょくかがざあと震えた。隻影へきえいを吸いあげて、紫の双眸が鈍く瞬きだす。


「魂を壊す毒というものを知っているか、といったね――現帝が先帝に盛った毒は、僕が調毒したものだ」


 慧玲は言葉を絶する。息まで張りつめ、視線を彷徨わせた。


「正確には僕が毒そのものだった」


「おまえが毒? でも、先帝が盛られたのは人毒じんどくともまた違う禁毒ごんどくだったはず」


「人毒の造りかたは教えただろう」


 十三年掛けて多種多様な毒を取りこみ、からだのなかで調毒をする、それが人毒だ。


「人毒ができあがってすぐに動脈から血潮を搾ると、辰砂しんしゃに似た毒の結晶ができる。竜血りゅうけつとも称される希少な毒だ。砕いたかけらひとつあれば、万は殺せる猛毒だが、この毒の特質は他にある」


 ヂェンが声を落とす。


「血縁者に盛るのさ。縁は遠くとも構わない。血と毒が雑ざった時、この毒は真の効果を発揮する。魂を蝕み、破壊するという毒能どくのうを……ね」


「血縁……まさか」


 後宮は噂が咲き群れる宮だ。風聞のなかには現帝の嫡嗣ちゃくしにまつわる噂があった。病弱な御子で後宮から離れた僻遠に離宮を設けて暮らしていたが、五年前に妃とともに失踪した。おそらくは暗殺されたのだろうと囁かれていたが。


「ご明察だね」


 鴆は口の端をあげた。


「僕が現帝であるディアオの、嫡嗣むすこだよ」


 動揺して動けずにいる慧玲の指から玉佩ぎょくはいを取りあげ、鴆は静かに語りだす。

 彼がこれまでたどってきた、毒の地獄を。

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