80 皇帝倒れる

 蝕まれた日は時を経て、空に還ってきた。

 だが、異様なる天変てんぺんに見舞われて乱れた民心が静まることはなかった。都の人々はわざわいの兆候ではないかと騒ぎ、皇帝のまつりごとを疑う声もあがっていた。宮廷では巫官ふかんたちが天毒てんどくさわりを畏れて祈祷を捧げている。


 春節しゅんせつを控えた華の宮でも同様に、不穏な気配が漂っていた。

 孔雀のこうがいを挿して緑の袖をはためかせた姑娘むすめが、後宮と宮廷を結ぶ橋にたたずんでいた。橋を警備する衛官は姑娘の姿を検め、一揖いちゆうする。


ツァイ 慧玲フェイリン、皇帝陛下が御待ちだ、渡れ」


 日蝕があった翌朝、慧玲フェイリンのもとに宮廷からの使者が訪れた。


 いわく皇帝が毒疫どくえきに蝕まれた――と。


 宮廷の典医てんいたちが集められて診察しているが、解毒げどくはおろか、如何なる毒かも解らないため、白澤はくたく姑娘むすめを呼び寄せよと皇帝が直々に仰せになったとのことだった。


 宮廷に踏みいるなど、いつ振りだろうか――


 華やかな後宮とは違い、宮廷は重厚な調度で飾りつけられ、帝が君臨するにふさわしく調えられていた。壁から垂幕たれまく、香炉等の備品にまで麒麟きりんの意匠が施されている。麒麟は皇帝の象徴だった。


 慧玲フェイリンは緊張し、ひそかに唇をかみ締める。

 ヂェンはいった。誰が先帝に禁毒ごんどくを盛ったのか、知っていると。

 宮廷に先帝を毒したものがいるのだと考えるだけで、瞳の底で焔が燃えるのを感じた。だが、怨嗟えんさだけならば排することも難くはなかった。


(「白澤はくたくは知っていたはずだ。先帝の死後、地毒ちどくの禍に見舞われることを。そして毒疫どくえきを解毒できるのは白澤の叡智だけだと」――)


 ヂェンの言葉が、頭から離れない。


 日蝕で宦官かんがんや女官たちが騒ぎだし、鴆ともそれきりになったが、時が経つほどに鴆が植えつけた疑念は毒のように心を蝕んだ。

 地毒ちどく猖獗しょうけつをきわめることが母親の望んだ復讐だったのか。だとすれば、姑娘むすめである慧玲フェイリンが薬であろうと争い続けているのは。


(いけない。今はよけいなことは考えず、皇帝陛下の御身だけを考えなければ)


 慧玲は無理やりに思考を絶つ。これまでもそうしてきたように。




 皇帝の房室へやは宮廷の最上階にあった。

 廻廊では高位の典医たちが身を縮ませ、うつむいていた。廃姫はいきを疎ましくおもっていながらも皇帝の毒に匙を投げたという事実が彼らを畏縮させ、慧玲のことを睨むこともできない様子だった。


ツァイ 慧玲フェイリン、参りました」


 皇帝は倚子いすに腰かけてはいるが、激しい苦痛に堪えるように頭をかかえ、つくえにふせていた。時々呻きを洩らし、余程に苦しいようだったが、慧玲フェイリンの声を聞き、顔をあげた。慧玲は皇帝の顔をみて、息をのむ。


(角だ)


 皇帝の額からは、角としか言い様のない異物が伸びていた。

 枝わかれしたそれは鹿を想わせるが、慧玲の頭に真っ先に浮かんだのは別のものだった。


蚩尤しゆう? いや、それはあまりにも)


 蚩尤しゆうとは伝承に登場する鉄の額をもった化生ばけものだ。叛乱はんらんつかさどることから、先帝に造反ぞうはんした皇帝と重なったが、彼の反逆は悪意や欲望によるものではなかった。重ねあわせるのは非礼にも程がある。


「……陽に異変が現れたであろう」


 皇帝は息絶え絶えだった。


「時を同じくして、頭が割れるように痛みだし、額にこのようなものができた。白澤の叡智をもってすれば、これが如何なる毒か、解けるであろう」


「左様でございます、陛下。まずは脈を取らせていただいても宜しいでしょうか」


 脈拍は正常。打診をしてぞうも確かめるが、異常はなかった。ついに病変部である角に触れ、診察する。脂肪腫しぼうしゅか、血管腫けっかんしゅを疑ったが、硬すぎる。まさに角だ。犀などの動物は硬化した皮膚が角になる。だがこの角は外胚葉がいはいよう、つまり皮膚の細胞からなるものではなかった。

 皇帝の角は他でもなく、硬い土の塊でできていた。


(これは、土の毒だ……なんてやっかいな)


 あらゆる毒のなかでも最も難解で、強いのが土の毒だ。

 なぜならば、土は万物の根幹だからである。水脈、木脈、金脈は土の底に張りめぐらされ、火もまた燃えつきれば土に還るものだ。


 皇帝は命ずる。


「よいか、ツァイ 慧玲フェイリン。かならずや毒を絶ちて、薬と為せ」


 渾沌こんとんの姑娘が死刑に処されず、恩赦を賜ったのはまさにこの時のためだ。皇帝の命を助けるべく、彼女は今、命を預かっているのだ。


 慧玲は額づいて、だくする。


「誓って、御恩に報います」 

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