第五部《土の毒》は蝕む

79 回想…先帝と現帝 いかにして渾沌の帝は討たれたか

 時は、昨年の秋にさかのぼる。

 菊の風が吹き渡る宮廷で皇帝が盛大な宴を催していた。

 皇帝の姓はツァイ、名は索盟スォモン――慧玲フェイリンの父親にあたり、後に死刑となる渾沌こんとんの帝である。

 彼が酒を満たせと掲げる盃は、敵の髑髏されこうべで造られていた。


 妃妾きしょうたちは一様に青ざめながらも、皇帝の機嫌を損ねまいと微笑を振りまいている。だが、張りつめた緊張のなかで、若い妃妾が銚子ちょうしを倒した。酒が食卓にこぼれる。がたがたと震えながら詫びる妃妾きしょうに皇帝は嗤いながら「構わぬ」といった。


 安堵して唇を緩めた妃妾の頚がずれて、落ちた。


「そなたが死ねばよいだけのことだ」


 血潮が噴きだす。妃妾たちは悲鳴をあげかけて、なんとか、のむ。さもなければ、今度落ちるのは自身のくびだと解っているからだ。


 嗤い続ける皇帝の瞳は血に飢え、濁っている。


 宮廷の枝葉を紅に染めるのは、秋風ではなく吹き荒ぶ血の嵐だった。

 廷臣ていしんたちも皇帝の暴虐に身を竦め、項垂れるほかにない。苦言を呈した碧血へきけつの忠臣は全員処刑された。死刑に処された者たちの心臓を取りだしては、皇帝が貪っているという噂まであった。

 誰もが憂う。索盟スォモン皇帝は渾沌の化生に落魄してしまったと。

 あれほどまでに敏く、勇敢で、人徳のある君帝であったのに。

 その時だ。宴の場に踏みこんできたものがいた。索盟皇帝の兄であるシュ ディアオだった。


「兄上か。どうだ、ともに飲もうではないか」


 索盟スォモン皇帝は赤ら顔で盃を掲げて、ディアオに笑いかける。雕は頚を落とされ絶命している妃妾に視線をむけ、頬を強張らせながら、索盟スォモン皇帝に跪いた。


「陛下、私が献上した異境の蜂蜜酒は御気に召して頂けたでしょうか」


「左様であったか。ああ、非常に甘露だ」


「それはようございました」


 索盟スォモン皇帝は正室せいしつ嫡嗣ちゃくしだが、ディアオは下級妃妾を母親に持ち、兄に産まれながら皇帝にはなれなかった。姓がツァイではなくシュであるのも妾腹しょうふくのためだ。もっとも、ディアオが正室の御子であったとして、皇帝になれたかは甚だ疑わしかった。剣もまともに扱えず、そもそも馬に乗ることからして得意ではなく、かといって巧妙な策を練れるわけでもない。索盟皇帝の後ろに隠れているだけの臆病者。それが周知された雕の評であった。

 ディアオには索盟スォモン皇帝の暴虐は制められぬ。誰もがそう諦めていた。


「それでは私も有難く頂戴致します……」


 ディアオ索盟スォモン皇帝から盃を受け取る振りをして身をかがめ、刹那――剣を抜き放った。


 だが斬撃は索盟スォモン皇帝に達さず、弾かれた。


「この程度の剣で殺すつもりだったとは。侮られたものだな、兄上」


 索盟スォモン皇帝もまた、瞬時に抜剣していたからだ。不意をついたはずの剣撃を弾かれたディアオは、咄嗟に後ろに退り、哀しげに眉根を寄せていった。


「さすがだな。落ちぶれようとも、剣だけは衰えぬとみえる。剣ではとうとう、一度もそなたには勝てぬようだ」

 

 索盟皇帝は廻廊に控えさせていた側近たる武官にむかって叫ぶ。


「謀反だ――――ディアオを捕えよ!」


 一拍後れて廻廊から現れた武官は、胸から血潮をあふれさせて満身創痍の様だった。


「御逃げ、ください……陛下。ディアオの軍が造反を」


 それだけいって、武官は絶命する。


 ときの声があがった。

 雪崩れこむようにディアオの軍が侵入してきて、索盟スォモン皇帝を包囲する。妃妾たちは今度こそ絶叫して逃げだし、廷臣ていしんたちも索盟皇帝に加勢することなく全員が後ろにさがった。孤立無援となった索盟皇帝は剣を振るい、軍勢を退けようと抵抗する。


 索盟スォモン皇帝は強い。戦場で武の神と称えられただけはあった。だが、ぐらりと重心が傾き、動きが鈍りはじめる。


 毒だ。


 雕の贈った酒は、水銀蜂の蜂蜜を醸したものだったのだ。


 索盟スォモン皇帝の脚が麻痺しはじめた隙をつき、ディアオが背後から索盟の腹を刺し貫いた。

 索盟皇帝が血潮を喀きながら、雕を振りむく。濁りきっていた索盟皇帝の瞳が一瞬だけ、澄み渡った。


「ああ、……そうか、お前だったのか」


 索盟スォモンの言葉に雕は一瞬だけたじろいだが、惑いを振りきるように声をしぼりだす。


「……私は、そなたの補佐も充分にできぬ愚兄であったが……それでも、弟のあやまちを糺すのは兄の役割だッ」


 最後は喉を猛らせて、ディアオはいい渡す。軍が湧きたった。

 腹を刺され、毒に侵された索盟皇帝は何か言いたげに唇を動かしたきり、気絶する。


索盟スォモンを捕縛し、解毒を急げ。死刑の時まで絶命させるわけにはいかぬ」


 索盟スォモン皇帝がひきずられていく。

 続けてディアオは廷臣にむかい、堂々と宣言する。


渾沌こんとんの帝は討ち倒した! この時をもって私がコクの皇帝となる!」


 廷臣たちは雕に跪き、軍は剣を掲げて、高らかに歓呼の声をあげた。


ディアオ皇帝陛下万歳、雕皇帝陛下万歳、万歳、万歳……」


 歓喜の渦は宮廷を擁し、都にまで拡がっていく。渾沌の終焉を報せる鐘のように。


 


       ……



 

「……あの時の夢、か」


 つくえひじをついて転寝うたたねしていたディアオ皇帝は、独り言つ。


 先帝を廃してから、五季が経った。約一年と三カ月。光陰矢の如しと昔人せきじんは語ったが、真に瞬きのうちに過ぎたものだと皇帝は息をついた。最後に振りかえった時の、索盟スォモンのひどく静かな瞳がいまだに皇帝の胸を縛る。


 正午を報せる鐘が響いてきた。

 思索を振りほどいて、皇帝はつくえに拡げられた木簡もっかんに視線を落とす。新たな政策についての重要文書だ。高官たちがすでに目を通しているため、皇帝は印顆いんかすだけだ。繰りかえしの職務であるため、ねむけを催す。


 前触れもなく房室へやに影が差した。


 窓に視線をむけた皇帝は、にわかに天がくらくなっていくのをみた。嵐か。だが夏の霹靂へきれきでもあるまいにこうもいきなり掻き曇るものだろうか。窓から振り仰いだ皇帝は、言葉を絶する。


 日輪が端から陰っていく。蟲にでも喰われるように。


「……不祥ふしょうな……これは天毒てんどくなのか?」


 刮目かつもくする皇帝の視界に横ぎったものがあった。

 燃えさかる火か。違う。あれは。

 皇帝が青ざめ、震えだす。

 陽焔かぎろいを帯びたそれは屋頂やねから屋頂に渡って、鐘塔しょうとうの頂まで駈けあがり、蝕まれていく日輪にちりんを背に咆哮する。


「っ……ぐ、あぁ……」


 突如として皇帝が頭を抱えて、崩れ落ちた。

 皇帝を襲ったのは頭蓋ずがいが割れんばかりの激痛だった。皇帝がぶつかった拍子に青銅の大香炉だいこうろが倒れて、音をたてる。房室へやの外に控えていた衛官が異変に気づき、確かめにくる。


「なにかございましたか、っ……これは」


 皇帝の尋常ならざる様子をみて、衛官は大慌てで飛びだしていった。


「直ちに宮廷中の典医てんいを集めよ!」

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