78 日を喰らう蟲

 晴れわたる盛冬の昼さがりだった。

 春妃しゅんきと宦官が貴宮たかみやの橋を渡っている。幼けなく可憐な媛だ。そんな彼女につき順う宦官は物々しい假面具かめんをつけ、剣鉈けんなたを帯びていた。


「こんなに晴れたのは久し振りですね」

「ずっと雪続きだったからな」


 毒に侵されたあの朝から七日が経った。卦狼グァランは快復して、これまでどおりに春妃たる李紗リィシャに寄りそっている。今は欣華シンファ皇后に呼びだされた帰りだった。


「……ほんとうによかったのか、ひめさん」


 卦狼がいたわるように声を掛けた。


「皇帝も皇帝だ。リー 雪梅シュエメイ帝姫ていきを産んだからといって、春妃しゅんきの席を譲れなんて」


 李紗リィシャは緩やかに振りかえる。


「構いません。喜んでお譲りいたします。実はちょっとだけ、安堵しているのですよ。はからずも雪梅シュエメイ嬪にたいするせめてもの償いとなりました」


 欣華皇后は春妃に麗 雪梅を迎えたいといった。皇后の希望というよりは、皇帝からの提案だという。だが妃は季節ごとにひとりだ。

 つまりは春妃から退いてくれということだった。

 年が変われば、李紗は降格してひんとなる。彼女の一族は悔やむだろう。けれども李紗にはひと握りの未練もなかった。


「わたくしにはあなたがおりますもの」


 卦狼は不承そうに呻ったが、李紗があまりにも嬉しそうなので、それいじょうはなにもいえなかった。

 その時だ。対岸から橋を渡ってくるものがいた。ヂェンだ。

 卦狼が瞳を見張り、あの時の毒師だと気づいて神経を張りつめた。鴆は春妃をみて一揖いちゆうした。李紗はまさか毒師だとは思いもせず、会釈をかえして通りすぎる。すれ違いざまに卦狼は低く喉を鳴らした。


「貴様は……」

「僕がなにか? 僕は風水師だ。貴方は、宦官じゃないのか」


 静かに声を落として鴆が釘を刺す。素姓を洩らすようなことがあれば報復するが、黙っているかぎりは窮奇きゅうきの一族として係わることはないと。


「……そうだな、俺はただの宦官だ」


 鴆は満足したように紫のひとみを細めて、背をむける。遠ざかっていくその背は抜き身のように凍てついて、救いようもなく、孤独だった。


彼奴あいつ蟲毒こどくの壺の底なのか)


 身に帯びているのは人毒のみにあらず。一族の怨嗟を一身に受けて、彼はどれだけの地獄を渡ってきたのか。


(それは呪いじゃないか)


 李紗が振りむく。卦狼? と唇が動いた。卦狼は昔日せきじつの鎖を振りきるように進み、まっすぐに李紗のもとにむかった。


「ほんとうに綺麗な晴天ですこと」


 李紗が蒼昊そうこうに瞳をせて、笑う。逢ってからどれだけ時が経っても、幼けない微笑は姑娘むすめだった頃と変わらない。卦狼にはそれだけでよかった。いつか、息絶える時まで、彼が望むものはそれだけだ。

 男は愛する華の背を護るように歩きだす。


 ふたりの頭上に季節を違えた桜吹雪が降りかかる。融けない祝福のように。



 

             ◇



 

 後宮では春節しょんせつにむけて大掃除が始まり、朝から晩まで慌ただしい時期に差し掛かっていた。戸には祝詞のりとが書かれた春聯しゅんれんが、窓には鳥や華の意匠に細工された剪紙きりえが飾られ、建物までもが新たな年の訪れに待ち遠しく想いを馳せ、紅を挿しているかのようだ。

 特に春の宮は間もなく春妃が替わるとあって、荷の移し等に追われて女官と宦官が走りまわっていた。


 あれから晴天が続き、積もった雪も弛みはじめていた。かわりに風が強く、時折嵐のような風が吊り灯籠を踊らせる。


 仕事があり、冬宮に出掛けていた慧玲は、高楼の吊り橋で鴆と逢った。互いに繁忙をきわめ、あの朝に別れたきり、逢っていなかった。


「……やあ」


 一瞬の緊張があった。今度逢うときには彼は毒師で、慧玲は薬師だと解っていた。そして剣を交錯させるように言葉をかわし、傷つけあうことになるだろうとも。


「たいそうな博愛じゃないか。雪梅シュエメイ嬪を殺そうとした毒師の命を助けるなんて」


「おまえはなぜ、李紗リィシャ妃の宦官を殺そうとしたの。雪梅嬪を害したからといって、おまえが動くはずもない」


「貴女には関係がないことだ」


「毒師としての因縁でもあったの」


「いったはずだよ、敏すぎると身を滅ぼすと」


 鴆は紫の眸を歪める。宵の帳じみた漢服が寒風に煽られてよそいだ。

 静かに睨みあい、慧玲は眉の根を寄せる。


「おまえ、ずいぶんと毒々しいけれど」


「僕は、もとから毒だ」


「そうね。それでも、毒を隠すことはできていたはず」


 もちろん、今でも妃妾や宦官程度には彼の毒など感じ取れないだろう。だが慧玲からすれば、彼の視線ひとつからも荒むような毒気があふれ、側にいるだけで肌が痺れるほどだった。


「あんただって」


 強い風が吹きつけ、吊り橋が軋みながら振られる。


「散々惑いながら薬にしがみついているだけのくせに」


 慧玲が息をのむ。咄嗟に言いかえすには風が強すぎた。


「ねえ、先の白澤はくたく――貴女の母は何故、死を選んだんだろうね。彼女は皇帝から毒の盃を渡されたのではなく、みずから毒をのんだのだろう?」


 風を潜る低い声が耳底まで侵食していく。聞いてはいけない、と解かるのに。


「……黙りなさい」


「白澤は知っていたはずだ。先帝の死後、地毒の禍に見舞われることを。そして毒疫を解毒できるのは白澤の叡智だけだと」


 考えたことがあった。母親はなにを考え、命を絶ったのか。愛するひとがいないせかいに堪えられず、絶望したのだとおもっていた。


 そう、想いたかった。

 けれど、ほんとうにそうだったのか。


(愛が毒に転ずるものであるならば、あれこそが)


 俄かに、空が掻き曇った。

 風で雲がながれてきたのかとおもったが、違う。外にいた女官や宦官が一斉に騒ぎだす。恐怖する声や悲鳴の群につられて天を仰視した慧玲と鴆は、言葉を絶する。


 陽が、蝕まれていた。

 正午を報せる鐘が響くなか、貪欲な蟲にでも喰われるように日輪が端から陰っていく。暗澹たる帳が大地に垂れる。


「……日蝕」


 慧玲がつぶやいた。

 皇帝が、毒疫で倒れたのはその晩のことだった。

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