77 壁に耳あり障子に目あり

 夢はみなかった。

 隅中午前十時の鐘に慌てて身を起こすと、ヂェンはおらず、けむりのにおいが僅かに残っているだけだった。秋にもこんなことがあったと想いだしながら、身支度をする。襦裙じゅくんには卦狼グァランの血痕が残っていたので、別の襦裙ふくに着替える。


 こしまきの紐を腰で結び、ころもを纏い、外掛はおりを羽織る。こうがいで髪を結いあげて、最後は鏡にむかって毒の簪を挿す。


(そういえば、いつだったか、母様の簪を髪に挿したことがあった)


 綺麗なものに惹かれる、幼い姑娘むすめらしい時分が彼女にもあったのだ。母親がもっていた瑠璃の簪にこころが躍った。


(母様があれほどまでに怒ったのは後にも先にも、あの時だけだ)


 これは索盟スォモンが私に贈ってくれた物なのですよ、それをよくも――そう声を荒げて、彼女は姑娘むすめから簪を取りあげた。その時はなぜ、これほど母親が怒ったのか解らず、ぼう然とするばかりだった。だが、今ならば解かる。


(母様は、それほどまでに父様を愛していたのだ)


 それなのに、母親はついに先帝だけは解毒できなかった。


(今際になって、母様はいった)


 貴方ですよ。貴方が――――れば、彼は命を落とさなかったのですよ、と。


 母親は姑娘むすめを怨んでいたのだろうか。最後に残した言葉は、最愛のひとを奪った姑娘にたいする報復めいていた。事実、その言葉で絶望した慧玲フェイリンは毒をのんだ。

 それでも母親は、命を賭して壊れた先帝から慧玲の身を護り続けたのだ。


(わからない)


 死者は語らぬものだ。どれほど望んでも。


 鏡に映る瞳は母親と同じ緑だった。昏い瞳を覗きこんでも、沈黙が続くばかりだ。

 その時、重い静寂を破るように賑やかなくつの音が響いてきた。騒々しいほどに健やかな声が濁った思考を吹きとばすす。


「おはようございます、ちょっと聞いてくださいよ! 今朝起きたら、房室へや中に蟋蟀こおろぎ飛蝗ばったがわらわらと! もうほんとにうじゃうじゃといて! 卓に蟋蟀、窓にも飛蝗、果ては床榻しんだいにまで! 地獄かとおもいました!」


 息も接がずに訴えられて、想わず笑ってしまった。


「ご愁傷様でしたね」


「ほんとですよ! 全部残らず成敗するのに、時間が掛かってしまいまして! 箒でたたいたら、ぐちゃあ……って、触れたくもないのに潰れたものまで掃除しないといけなくなって……というわけで、遅刻しちゃいました」


 藍星は陰りかけた心を日常に引っ張りもどしてくれる。それは慧玲にとって非常に幸いだ。


(いつだって、藍星に助けられている)


 鏡から離れて、慧玲は薬箱の準備に掛かった。まずは依頼してきた妃妾たちのもとにいかないと。秋の宮と、春の宮だったか。


「あ、そうだ。皇后様が御呼びでした。雪梅シュエメイ嬪のことで御礼がしたいとかで」


「……皇后様は何処に耳をもっているんでしょうね」


 雪梅嬪が倒れたことは公表していないはずだ。正直にいえば非常に怖いのだが、呼ばれているのに無視するわけにはいかない。


「いきましょうか」


 雪曇りのなか、繰りだす。

 笹は雪に埋もれ、白銀のなかに青竹の節が際だっている。時は進み、季節はめぐるものだ。悔やみ、惑い続ける人の想いを置きざりにして。


 

      ◇


 

 貴宮たかみやはいつもと変わらず華やいでいた。

 水晶宮すいしょうきゅう天蓋てんがいに積もった雪はすでに融けており、内部は麗らかな陽光と季節折々の花とで埋めつくされていた。

 噎せかえるほどの花の香を随えて、百華の女帝あるじのように欣華シンファ皇后が微笑んでいた。


雪梅シュエメイ嬪の御子ひめが無事に誕生したのは、あなたの功績だと聞いたわ。帝姫ていきの御命を救ったのよ。ふふ、さすが、わたしの可愛い食医さんね」


(だから、何処から聞いたのよ……)


 雪梅嬪の女官に皇后の密偵でもいるのだろうか。かといって、まっこうから訊けるはずもないので、頭を低くさげて「恐縮です」とだけいった。


「よって、ツァイ 慧玲フェイリンを昇級させ、正五品しょうごほん才人さいじん叙任じょにん致します」


 正六品しょうろっぽん宝林ほうりん正七品しょうななほん御女ごじょまでは御妻ぎょさいという位に属するが、才人ともなれば世婦せいふにあたる。なお、嬪つきの女官である小鈴が宝林ほうりんであり、藍星は御女ごじょにあたる。


「残念だけれど、あなたが先帝の姑娘むすめであり、陛下の寵を得られないかぎりはこれが最高位になるわ」


「めっそうもございません。過ぎたる御厚誼を賜り、御礼申しあげます」


 欣華皇后が輪倚くるまいすを転がして、慧玲の側までやってきた。ぬかづいていた慧玲が想わず視線をあげると、欣華皇后はどこまでも穏やかに語りかけてきた。


「妾はね、陛下のご寵愛を信じているのよ」


 咄嗟にはなんのことか理解できなかったが、一拍を経て直感する。雪梅嬪が毒を盛られた時に皇后を疑ったことを看破し、牽制しているのだと。慧玲は青ざめ、弁解する言葉を捜したが、それよりもさきに欣華皇后が続けた。


「どのような華と戯れていても、最後には、妾のもとに帰ってきてくれる――そうおもって待ち続けるのもまた、愛なのよ」


 欣華皇后は華らしく微笑んだ。


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