76 道連れにさせて

 卦狼グァランが意識を取りもどしたのは日出午前六時の鐘が遠くから響きだす頃だった。まだふらついていたので、慧玲フェイリン提燈ちょうちんを提げ、竹林を抜けるあたりまでふたりを送った。

 朝から雪がちらつき、雲が低く垂れこめている。

 李紗リィシャ妃は慧玲が引きかえすまで頭をさげ続け、卦狼も特に自身から語ることはなかったが、感謝の意を表すように低頭していた。

 


            ◇

 


 離舎に帰りつくと漢方のにおいにまざって、僅かだがけむりを感じた。緊張して房室へやのなかを覗きこめば、質素な床榻しんだいに鴆が腰掛けていた。


「やあ、あがらせてもらっているよ」


 鴆がちからなく袖を振って、微笑んだ。


「一睡も眠れなかったからさ」


 だからといって、なんでここにくるのか。

 日頃から余裕を崩さない彼にしては珍しく、酷く疲れている。腕には包帯がまかれていた。なぜ傷を負ったのか、推察できるからよけいに言葉が詰まって、慧玲はため息をひとつ。提燈をおいて、鴆の横に腰掛けた。


「……もうちょっとしたら、藍星ランシンがくるから、それまでには帰ってちょうだい。彼女はおまえといると悪寒おかんがするそうよ」


「はっ、僕もミン 藍星ランシンのことは嫌いだね」


「藍星はいい姑娘よ」


「どうだか。刺客だったくせして、貴女に信頼されてる。……気にいらない。ついでにリー 雪梅シュエメイのことも嫌いだ」


「あきれた。好きなひとなんかいないんじゃないの」


 鴆はあいまいに沈黙して、慧玲の肩にもたれかかってきた。


「安心しなよ。明 藍星は、昼頃まではこないよ」


「なにかしたんじゃないでしょうね」


房室へやにちょっとね。毒のない蟲だが、彼女は蟲ぎらいだろう? 今頃は衣櫃たんすまでどけて追いまわしているんじゃないか」


 哀れ、藍星。今頃悲鳴をあげながら蟲と格闘しているに違いなかった。


「……」


 問い質したいことがひとつ、またひとつと頭をもたげる。なぜ、卦狼グァランを毒したのか。麒麟紋が彫刻された玉佩ぎょくはいを所持していたのはなぜか。

 だが敢えて言葉をのむ。彼がなにも語らないからだ。さきほどまで春妃と卦狼がいたことも解毒をしたことも解っているだろうに、彼はそれについて触れなかった。

 ならば今は、ただの風水師と食医の姑娘むすめとして。あるいはそれすらも捨てて、側にいようとおもった。

 鴆が床榻しんだいに横たわる。

 眠るのだろうか。ほんとうに眠りにきたのかと瞬きをしたところ、彼は慧玲フェイリンの腕をつかんで、ひき寄せた。


「あんたも寝なよ」


 慧玲は鴆の胸に倒れこむ。


「隈ができてた。どうせ、ほとんど眠ってないんだろう」


「……悪夢ばかりなの。夢なんか、みたくもないのに」


 先帝に襲われる夢。あるいは皇帝の気が変わって、処刑される夢。この頃は眠っていても安らぎがなかった。

 だが、最もおそろしかったのは殺される夢ではなかった。


(母様がただ黙って、私を睨みつけている夢……あんな夢をみるくらいならば、眠らないほうがましだ)


 鴆が髪を指を絡め、唇を寄せてきた。


「……新たな毒をなじませてきた。人毒は入れ替えられる。これだったら、貴女をちょっとくらいは毒せるはずだ」


 静かな接吻だった。

 痺れるようなねむりが唇から喉に落ちて、胸を、頭を侵す。

 毒を感知して、鼓動がはねたが、眠りへの誘いのほうが強かった。


「夢はみないよ。僕が壊してやる」


「そう。だったらこなごなに壊して」


 彼の腕に頭をゆだねて、慧玲は瞼を重ねる。

 早朝までは確かに彼の毒と争っていたのに、今はこんなにも一緒にいることが穏やかだ。だが今度会えば、慧玲はなぜ李紗の宦官を殺そうとしたのかを問い質すだろうし、鴆もまた慧玲を傷つけ、揺さぶりをかけるだろう。

 どんな言葉がふさわしいのかも解らない関係だ。


(愛、か……)


 最もふさわしくない言葉なのに、なぜか思い浮かぶ。

 だがその考えも散り散りになって、緩やかな眠りへと落ちていく。意識の糸を放すまぎわ、頚筋くびすじに痺れるような熱が触れた。接吻だ。


「……好きだ。ほかのものなんか要らない」


 すでに言葉の意味を理解するだけの思考は廻らず、寂しげな、縋るような響きだけが微か、鼓膜に残る。


「だから、道連れにさせてくれ」

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