75 毒が、彼の愛だったから(性被害描写注意)

「……彼が毒をつかってどなたかを害するのは、これがはじめてではありません」


 茶を飲んでようやく声がもどってきた李紗リィシャ妃は、ほつほつと語りはじめた。

 牛乳で茶葉を煮だして淹れた茉莉花茶モーリーフアチャーだ。灼熱感の残る舌では温かい飲み物はつらいだろうから、ひやしたものを渡した。

 卦狼グァランはあの後、すぐに眠ってしまった。李紗妃は心配していたが、寝息も脈も落ちついているので、解毒の疲れが取れたら意識を取りもどすはずだ。


「その口振りですと、あなたが命令したわけではないかのようですが」


「命じたことはありません。ですが、望みました――雪梅嬪が死産となることを」


 李紗妃は敢えて、その言葉を声にした。


「それとなく彼に伝えていたということですか」


「……木簡をしたためて、願掛け桜の根かたに埋めてきて貰いました」


 端正な筆致で書かれた呪詛を想いだす。あれは李紗リィシャ妃のものだったのか。


「二十五年ほど前になるでしょうか――彼は酷い火傷を負って、森のなかで倒れておりました。今にも息絶えそうな彼を放っておけず、邸に連れて帰りました。それからというもの、彼はわたくしにつかえ、わたくしを害するものを毒殺し続けてきました」


 ひと呼吸挿んでから、彼女はいう。


「はじめは士族の男だった、とおもいます。その男はまだ幼かったわたくしを房室へやにつれこむと、無理やりに組み敷き……散らしました。なにをされているのか、その時は理解できませんでした。身のうちから裂けるように痛み、きもちが悪くて……悲鳴をあげ続けました。士族の男はわたくしのくびを絞めて殺そうとしましたが、悲鳴を聞きつけた卦狼グァランが助けにきてくれ、一命は取りとめました」


 努めて静かに語っていたが、茶器のなかではさざなみが絶えることはなかった。震えているのだ。

 花を散らされる。それがどれほどおそろしいことか。

 同じ姑娘おんなの身である慧玲には想像がついた。


「ですが、罪に問う事はできませんでした。わたくしの一族よりも男の身分のほうが高かったためです」


 刑部とは大抵が権力の側につく。まして女の側などにはつかない。

 李紗妃は終始唇をかみ締めていたが、ふっと解いた。硬い莟が綻ぶように。


「まもなくして士族の男が死んだと知らされました。夥しい血潮を喀き、自身で吐瀉した血潮の海に沈み、苦痛に身もだえながら息を引き取ったと」


 彼女は微笑する、嬉しそうに。


「安堵しました。何ヶ月かぶりに悪夢にうなされず、眠れたのを憶えております」


 或いはそれで終われば、よかったのだ。


「それからです。わたくしに害をなすものたちが続々と不審死を遂げるようになりました。わたくしを虐めていた家庭教師も、嫌がるわたくしに触れようとした馭者も――それは次第に過剰になっていき、先の春妃が命を落としたのも……おそらくは」


 報復ですらない。彼女の欲望のために毒がまき散らされるようになった。


「毒を制せるのはあなただけだったはずです」


「仰るとおりです。でも、とめませんでした」


 李紗妃は瞳を綻ばせた。


「だって、それが彼の愛だったから」


 穏やかに寝息をたてる卦狼グァランの髪をなでながら、李紗リィシャ妃は愛しげにまつげをふせる。


「どれだけ悪いことでも、わたくしは……嬉しかった。毒殺されたという噂を聴く度、愛される幸せをかみ締めておりました。だって春妃さえいなくなれば、と望んでいたのは事実ですもの」


 事ここにおよんでも、李紗は果敢なく愛らしく。

 如何なる春の華よりも麗らかだった。


「どうか軽蔑なさって、心根の腐ったおんなだと」


 それゆえにゆがんでいた。


「公訴してくださっても、構いませんわ。雪梅嬪に毒を盛ったこと、春妃を暗殺したこと。罰はけます。喜んで」


 虚勢ではなく、現実に処刑となっても李紗妃は異を唱えることなく刑場にむかうのだろう。華のように愛を誇りながら。


 殺すことが彼の愛だったように、その愛のさきで裁かれるのが彼女の愛だ。


 重いため息をついて、慧玲フェイリンが頭を振った。


「私は、毒を絶つだけです」


 裁く者ではなく。かといって許す者でもなかった。


「ですが、誓ってください。再びに彼には毒をつくらせないと。毒すものは毒される。今度は助けませんよ」


 李紗妃は瞬きを繰りかえしてから頬を緩めた。


「誓います――この度の事でやっと解りましたから」


 李紗妃は身をかがめて、火傷で惨たらしく崩れかけた彼の鼻さきに頬ずりをした。髪が滝のように垂れる。


「彼がいてくれれば、ほかにはなにも要らないと」


 妃という称号も皇帝の御子も、ほんとうは要らなかったのだ。愛が側にあることは、得難い幸福だ。雪梅嬪が望んでかなわなかったものを、李紗妃はすでに持っている。

 彼女の唇は愛しい男の表をながれて、喉に接吻を落とす。喰むように。


(愛、か)


 慧玲にはまだぼんやりとしか理解できない。理解できないものは、こわい。


(ああ、そうか。私は愛がこわいのか)

 

 それは母親を破滅させた毒だ。だがそれは時に薬にも転ずる。李紗妃が卦狼を助けたように。

 恋をしてごらんなさいといった雪梅嬪の言葉が何故だか、耳に甦る。恋と愛はどう違うのだろうか。それすらもわかっていない。慧玲は一睡もしていなかったことを想いだすように瞳を閉じ、きようのない思索の縺れ糸を絶った。

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