72 化蛇の毒

 ぬえの鳴く晩だった。不穏な鳴き声だけが雪に浸み渡るように降り続ける。重い静寂を破ったのは暁を待たずして離舎の戸を叩いた妃嬪の悲鳴じみた声だった。


「助けてください! どうか……」


 慧玲フェイリンが戸を開けるやいなや、李紗リィシャ妃が縋りついてきた。


「お願いです、卦狼グァランを……わたくしのたいせつな宦官を助けて」

李紗リィシャ妃! いったいなにが」


 李紗妃は寝房しんしつで身につける中衣はだぎだけで外掛はおりも羽織らず、髪すら結っていなかった。それだけでも尋常ならぬ事態だとわかる。

 細い背には気絶した宦官――卦狼グァランを担いでいた。擦りむいた頬をみれば、時々転びながらも懸命に離舎までやってきたことが窺える。


「まずはあがってください」


 慧玲は一緒に彼を抱きかかえて、房室へやに運んだ。

 假面具かめんをつけていない卦狼は惨たらしい顔をしていた。ずいぶんと昔に酷い火傷を負ったのか。慧玲はこの程度では動じないが、藍星がいたら悲鳴をあげていたに違いなかった。むしろ気に掛かったのは臭いだ。宦官の服には鉱物の融けたような臭いがしみついていた。


(硫黄と水銀と……まさか)


 悪い予感がした。


(いや、よけいなことは考えるな。彼は患者だ)


 卦狼グァランの胸もとには喀血の痕があり、強張った四肢が時おり痙攣している。強い毒に侵されていることは明らかだった。

 ひとまずゆかに身を横たえさせてから卦狼の服をぬがせ、傷を確かめた。

 蛇にかまれた傷が脚と腕にかけて散らばっている。重ねて肌には鉤爪で掻かれたような線状の毒紋どくもんが浮かびあがっていた。腕からまわった毒は肩を通ってわき腹に、脚の傷から拡がった毒は腰にまで侵蝕してきている。

 毒紋が胸を侵せば、死だ。


「襲われた、といいましたが、どういった状況でしたか」


「わかりません。眠っていたら彼の房室から物音がして、何事だろうかと訪ねていったら、急に彼が飛びだしてきたんです。暗かったのでよくみえませんでしたが、矢のようなものが彼に刺さったような感じがしました。ですが、あらためて確かめたら彼の身にはもちろん、房室にも矢はひとつも落ちていなくて。あ、でも、かわりにこれが……」


 李紗妃はある物を差しだしてきた。慧玲は瞳を見張る。


玉佩ぎょくはいではありませんか」


 玉佩とは高貴な役職につく者が身に佩びる装身具である。剋では身分証のような物としてもつかわれていた。渡された玉佩は紫玉しぎょくで造られていたが、彫刻されていた意匠はあろうことか――――


「なぜ、こんなものが落ちていたのか、わたくしにも理解できません。麒麟は帝族の身分を表すものでは」


「憶測で語るのは危険です。贋物がんぶつかも知れません。お預かりしても構いませんか」


 李紗妃は震えながらひとつ、頷いた。


 今は毒の解明が優先だ。

 矢のように飛び、痕跡を残さない毒――白澤の書が頭のなかで嵐のように捲れ、言葉が乱舞する。蛇、蟲、生物の毒の項を過ぎて、人が造った毒の項に。


 化蛇かだ


 慧玲が息をのむ。


「間違いありません、これは化蛇かだの毒です」


 化蛇とは毒師が造りだした殺すための毒蟲どくむしだ。毒殺の証跡を残さずに敵を暗殺できるため、不可視の毒という異称があった。

 だが毒師から僅かでも離れると消滅するため、遠隔ではつかえず、重ねて化蛇は月と日を怖がるので動かせる時も限られる。つかいこなすのはきわめて難しい。


 卦狼グァランが微かに呻いた。

 化蛇の毒の廻りは速い。証拠を残さない毒物と記録されるとおり、被毒者が絶命すると毒紋もまた消滅する。残されるのは小さな牙の跡だけだ。春の宮から離舎までの距離を考えても、卦狼グァランにまだ息があるということは彼には毒にたいする強い耐性が備わっているということだ。


「彼は、助かりますよね。助けてくださるのでしたら、なんでもいたします……だからどうか、お願い……」


 李紗が涙ながらに訴える。


 哀れだ。すぐにでも助けなければ、と考える理性とは裏腹に、慧玲の感情は凍てついていた。


「……彼は、毒師ですね」


「っ……」


 李紗があからさまに動揺する。

 化蛇かだは線香のように燃えつきることから、煙蛇えんだともいわれるが、この煙がこうをともなうことはない。卦狼の服から漂った臭いは、彼自身が日頃から扱っている毒のものだ。そしてその毒は雪梅嬪の外掛から漂ってきた臭いと同じだった。


「雪梅嬪が昨晩、毒を盛られました。特殊な毒です。毒師にしか調毒できないものです」


 努めて冷静に喋りながら、胸のなかでは沸々と湧きたつものがあった。


(李紗が雪梅嬪を毒したのだ)

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