71 怨みは血に融ける

 青銅の假面具かめんが壁にあたり、硬い音をあげて転がる。

 現れた卦狼グァランの顔には酷い火傷痕があった。左側の頬は焼け落ちたのか、口角が頬骨の際まで裂けている。まるで狗の顎だ。

 口だけではなく鼻筋にも、焔に舐められた跡が刻まれていた。これほどの火傷ならば、嗅覚はかろうじて残っていたとしても鈍っているはずだ。慧玲が毒から臭いがしたといったのは、この鼻のせいもあったのだろう。


「酷い傷だね。あの晩だろう? 命からがら火禍かかから逃げだし、あんたひとりだけ、生き延びたわけだ」


 感情のぶれにともなって、卦狼の動きが鈍りだす。短剣の先端が長袍チャンパオの筒袖を裂き、糸くずがちぎれ舞った。


「残してきた者達の亡霊が枕べに訪れたりはしないのか。皇帝を殺せと喚かないのか。火傷はどうだ。二十五年も経てば、疼かないか」


 ヂェンはなおも言葉巧みに毒の舌をもって、傷を抉る。卦狼は剥きだしの奥歯を喰い縛って、涌きあがる激情をかみ砕いた。


「亡霊は、喋らねェよ。罵っても嘲ってもくれねェもんだ」


 卦狼グァランが勢いよく斬りかえす。


先刻さっきから視てきたみたいに語ってやがるが、二十五年前の晩、貴様は産まれてねェはずだ」


「だから何? 怨みは血に融けるのさ。毒みたいにね」


 彼は悪辣に嗤った。たいする卦狼は険しく眉根をゆがめている。


「あァ、毒だよ。だから、鼓膜に垂らされ続ければ、経験したこともない怨嗟にだって骨髄に到る」


 鉈が短剣を弾きかえす。


「あの晩、里のまわりにゃはいなかった。里を燃やしたのが誰の思惑だったのか、俺は知らねェよ。だが――誰よりも毒に秀いでた宗家そうけ姑娘むすめだけが生き延びるたァ、蠱毒みたいな燃えかたじゃねェか」


 鉈が鴆のわき腹をかすった。血潮が散る。

 追撃を避け、鴆がひとつ、後ろにさがった。


「……何が言いたい」


 鴆がひとみをとがらせる。卓におかれた燈火とうかを映して紫が鈍く揺らめく。


「怨みなんてのは後から植えつけられるもんだってことだ。だから俺にとっちゃあ、怨みなんかより恩のほうが遙かに重い」


 失望したように鴆が殺意を強めた。


「あくまでも僕と組むつもりはない、か。だったら、死になよ」


 鴆の袖から有翼ゆうよくの蛇の群が飛びだす。

 蛇は牙を剥いて卦狼グァランに襲いかかった。鴆が殺すつもりならば、そもそも剣などつかわない。彼は幾百のむしを帯びて幾千の毒を宿す人毒じんどくだ。

 卦狼は鉈を振るい、蛇を順に斬り落とす。ふたつに裂かれた蛇は毒の血潮をまき散らしながら床に落ちた。血潮に触れても毒、かまれても毒。だが卦狼は神経を張り巡らせ、毒を退けながら鴆にむかって踏みこむ。


 その時だ。誰かが廊下から房室へやにむかってきた。


「卦狼、だいじょうぶですか?」


 李紗リィシャ妃だ。

 物音で起きてきたのだろう。李紗は警戒もなく戸をあけた。残っていた蛇はいっせいに李紗へとむかう。


「――――ッ」


 卦狼が咄嗟に身をかえして、李紗をかばった。

 蛇が卦狼の腕や脚に喰らいつく。


「っぐ」


卦狼グァラン!?」


 李紗が悲鳴をあげた。


(春の妃か)


 春妃しゅんきである李紗に姿を視られてはさすがに危険だ。

 となれば、ふたりとも殺すか、撤退するかだったが、春妃が毒蛇にかまれて命を落とせば皇后に感づかれるだろう。今は動向を探られたくない。鴆は窓にあがり、撤退した。

 だが跳躍したとき、ことに鴆は気づかなかった。


 蛇の死骸はすべて煙になって、消滅する。蛇がいたという痕跡すら残らなかった。

 操者から離れると線香を四等分にした程度の時間*約十分で燃えつきる――これが化蛇かだというむしの特徴だ。卦狼グァランに喰らいついていた蛇も煙となったが、身のうちに打ちこまれた毒は残る。卦狼が喀血する。喉から血を噴きだしながら、彼は立ち続けていることもできず、膝から崩れ落ちた。李紗リィシャは懸命に彼を抱きかかえて、呼びかける。


「なんで、こんな……なにがあったのです」


「…………懐かしいなァ」


 卦狼はすでに意識が遠のき、李紗の声も届いてはいない様子だった。


「あん時もこうやって、俺を拾ってくれたんだったな。ひめさんは、まだちっちゃくてよ……あの時から、俺は…………」


 声がどんどん細くなる。


「聴こえません、なにをいっているのですか」


 李紗が泣きながら卦狼を揺さぶる。鴆は屋頂やねからそれを聞いていたが、あの様子では朝を迎えずに命を落とすだろうと考えた。


(毒するものは毒される、か)


 夏妃かきがそういって死に絶えたのだと慧玲は語っていたが、真理だ。毒師は碌な死にかたをしない。里ごと燃やされた一族も、毒蛇にかまれた彼も、鴆の母親もまた然りだ。


(僕もいつかは毒されて、死に絶える)


 それが報いというものだ。

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