73 怒りは薬にならない

李紗リィシャ雪梅シュエメイ嬪を毒したのだ。雪梅嬪も杏如シンルゥ様も命を落とすところだった。李紗はなにを想って、あの時、帝姫ていきの誕生を祝いにきたのか。男ではなかったことを嘲笑った? それとも産まれてきたことを胸のうちでは呪っていた?)


 桜は毒だと藍星ランシンに語った言葉がなぜか、頭に過ぎる。


(あれだけのことをしておいて。今だって、よくも私を頼れたな。ばれないつもりだったのか)


「御存知ですか」


 李紗は青ざめた唇を結び、黙り続けている。


「雪梅嬪がどれほど苦しまれていたか。御子みこを案じていたか」


「……わ、わたくしは」


 ああ、これは怒りだ。

 疎まれても、罵られても、殺されかけても、こんなふうに怒りがこみあげてきたことはなかった。慧玲が受けてきた屈辱や痛みなど、胸のうちでひとつ毒づけば、終わることだったからだ。

 だが、雪梅嬪を殺そうとしたことは。


(許せない)


 果たして助ける必要があるのかと、頭のなかで声がした。


(毒するものが毒されただけだ)


 ヂェンならば、そういうだろうと想った。


 卦狼グァランを襲ったのは鴆だという確信がある。

 なぜ、鴆が玉佩ぎょくはいをもっていたのかは謎だが、これだけ強いむしを扱えるのは彼くらいのものだ。それに鴆は、あの毒を造った毒師に関心をもっていた。


(薬がなければ、この毒師は息絶える)


 胸の裡に燃える吹雪が荒ぶ。


(だって、これは報いじゃないか)


 簡単なことだ。薬はできません。毒がまわっていて手遅れだ、といえば終わることだ。李紗妃は宦官が毒に侵されたことを公にするつもりはないはずだ。だから女官にも頼らずに離舎まできたのだ。


 この宦官が命を落としても、食医として責任に問われることはない。


「残念ですが」


 慧玲がいい掛けたその時、李紗妃が崩れるようにぬかづいた。震える指を揃えて、低く頭をさげる。


「お詫びいたします。罰ならば、受けます。陛下の御子みこを害した罪人として告訴なさってください。ですが彼は無実です。彼は、命令にしたがっただけで」


「……違う、俺がやったんだ」


 気絶していたはずの卦狼グァランが呻るように声をあげた。震え続ける身を起こして、慧玲の袖をつかむ。最後の力を振りしぼって。


「妃嬪に毒を盛ったのは、俺だ。罪に問うなら、俺だけにしてくれ」


 呂律もまわらぬ口を動かして、息も荒く懇願する。満身創痍だが、眼差しは強かった。


「これは、報いだ」


 悲鳴をあげたのは李紗妃だ。


「違います。報いならば、わたくしが受けるべきです。だってあなたが毒してきたのはすべて、わたくしのためでしょう」


「馬鹿いうなよ。ひめさんは、なにもしてねェだろうが。全部、俺が俺のために……やったことだ」


 ふたりは言い争う。互いをかばうために。

 哀しいほど、懸命に。


(ああ、毒じゃない)


 彼は、彼女は、今、毒ではなかった。

 そして誰もがひと匙の悪意で毒に転じるものだ。人は誰もが胸の裡に天秤を持っているから。小鈴シャオリンがそうだったように。


(今は、私の怒りこそが、毒だ)


 雪梅嬪ならば、許すだろう。助けることを望むはずだ。

 限界に達したのだろう。糸でもきれたように卦狼は重心を崩して、倒れこむ。李紗妃は彼を抱きかかえ、泣き崩れた。


 死なせるわけには、いかないと想った。最期は天命にゆだねるにしても、力はつくさなければ。薬なのだから。


「……これから、薬を調えます」


 慧玲の言葉に李紗妃が泣き腫らした顔をあげる。


「ほんとうですか。彼を……助けてくださるの?」


「李紗妃、解毒のためならば、なんでもすると仰せでしたね」


「もちろんです。彼の命が助かるのでしたら、なんでも」


 慧玲は腕を伸ばして、李紗妃の薬指に触れた。李紗妃は息をのみ、ひくりと頬を強張らせる。


「こちらの指輪を、ください」


「こ、これは陛下から賜った……」


 そう言いかけて、李紗妃は未練を振りきるように指輪を抜き取った。


「承知いたしました。どうぞ。……高値なものです。報酬にはふさわしいかと」


「誤解なさらず。報酬ではありません。そんなものは要りません」


 純金の指環を受け取り、慧玲はいった。


「薬につかいます」

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