68 女を縛る血の鎖

「おまえが雪梅シュエメイ様に毒を盛ったんだろう!」


 慌てて騒ぎのもとにむかえば、小鈴シャオリンが同僚の女官に思いきり頬をはたかれたところだった。小鈴は瞳を潤ませ、頬をおさえる。


「ふた月も前、おまえのところに陛下の御渡りがあったから、それで雪梅様の御子が邪魔になったんだ!」


「……違います」


 小鈴が震えながら、声をしぼりだす。


「ほつれていた刺繍を繕ったのは黄葉ファンイェです。私は外掛はおりにはいっさい触れておりません」


「そんな。確かに私が外掛を修繕しましたけれど、毒なんて」


 黄葉ファンイェは青ざめる。


「言い争うのはやめなさい!」


 雪梅シュエメイ嬪の一喝が響いた。騒いでいた女官たちが水を打ったように静まりかえった。


「女官のなかに毒を盛ったものがいるはずがないわ。だから、そんなことで争うのはやめてちょうだい」


 大きな声に驚いたのか、雪梅嬪の腕に抱かれた杏如シンルゥが途端に泣き喚く。誰もが気まずそうにうつむいた。雪梅嬪は声を落として、努めて静かに続けた。


「私は、全員のことを信頼しているわ。ほんとよ。僅かも疑ってなどいないわ」


 彼女は強い。慧玲フェイリンは感服して、唇をひき結んだ。愚かしさと強さは時に紙一重だ。だが愚かしいほどの情けに心を動かされるものは、いる。


「っ……も、申し訳、ございません」


 呵責に堪えかねて潰れるように小鈴シャオリンが膝をついた。縮こまるように額をつけ、彼女は嬰孩あかごの泣き声よりも悲鳴じみた声で訴える。


「私、です! 私が、御身おんみに毒を……」


 雪梅嬪は酷く動揺して「嘘、よね?」と縋るように問い質すが、小鈴の涙が如実に語っていた。誰よりも雪梅嬪の側に寄りそい、仕え続けてきた小鈴こそが毒を盛った犯人であると。


「で、でも、御子が流れるだけだと。こ、こんな酷い毒だなんて、お、おっ想わなかったんです。しっ、信じてください、雪梅嬪を危険にさらすつもりはなかったんです」


(毒を盛っておいて言い訳にもならないことを)


 彼女は毒を侮りすぎている。

 毒とは人を害するもので、命を奪うものだ。そう都合よく扱えるものではない。毒師でも、毒に喰われる気構えで毒に挑む。


「……杏如シンルゥを」


 雪梅嬪は何を想ったか、慧玲に杏如を預けた。

 小鈴シャオリンの前まで進んで雪梅嬪は腕を振りあげる。ぱしんと勢いよく小鈴の頭をはたいた。小鈴は瞳を見張り、続けて叱られた子孩こどものように頬をゆがめ、声をあげて嗚咽した。


「ごめんなさい……ごめんなさいぃぃ」


 雪梅嬪は盛大にため息をついてから、目線をあわせるようにしゃがむ。


「言い訳だったら、もっときちんと喋ってごらんなさい。聞いてあげるから」


「……だって、うらやましかったんです、雪梅様のことがずっと。わ、私だって良家の姑娘むすめとして産まれたはずだったのに」


 小鈴は訥々と身上を語りだした。


「うちは先祖が商売を成功させたおかげで、それなりに裕福な家筋だったんです。でも後をついだ父は商才が乏しく、物心ついたときには家は傾きはじめていて……年の離れた兄様の放蕩で私財がついに底をつき、私は奉公で都に。眠る暇も惜しんで勉強し、女官になるための試験に受かりました。念願だった後宮入りを果たして……その後は、雪梅様つきの女官に選んでいただき、実家にも多額の御金を送れて」


 言葉をきり、かみ締めるように。


「充分すぎるほどでした」


 小鈴は雪梅嬪を怨んでいたわけではない。心の根の優しい御方だと慧玲に語ったその言葉に嘘はなかった。彼女は雪梅嬪を慕っていたはすだ。妬み続けていた想いとは別に。


「でも御渡りがあって、私にも望みがあるのだと……そう想ったら」


 声が細る。結わえた髪を振りみだして、小鈴は濡れた頬に爪を喰いこませた。


「……幼い時分から繰りかえされてきた家族の言葉が、頭から離れなくなって」


「貴女は、なんといわれて育ったの」


「産んでやった恩をかえせと」


 ああ、それは呪いだ。

 どう足掻いても振りほどけない、錆びた血の鎖だった。


御家おいえのために最良の家と婚姻なさい。そのためだけに姑娘むすめを産んで、育てた。ほんとうならば、産んですぐ捨ててもよかったんだ。折檻をしても傷を残さないでやったのはそのためだと」


 頬に喰いこむ爪の先端はまるめられていて、肌を傷をつけるには到らない。だが、心は傷だらけだった。


「皇帝陛下のめぐみを賜れれば、家族にも……愛、愛して……もらえるかと、おもって」


 最後は言葉にならなかった。

 雪梅嬪は黙って聞き続けていたが、紅の袖を拡げて小鈴を抱き締めた。


「つらかったわね」


 雪梅嬪の瞳から涙がこぼれた。


「女なんか一族からすれば貢ぎ物の華だもの。摘まれてはじめて役にたつ飾り物のひと枝よ。でも、ほんとうは殿方の房室には飾られずとも、野でも森でも、華は懸命に咲き誇っているだけで」


 そこまで語って、彼女は苦いものをかんでしまったように唇を噤んで、静かに微笑んだ。雪梅もまた、そうだからだ。

 貢ぎ物として育てられ、舞を身につけ、今もまだ後宮という花籠に飾られている。枯れるまで咲き誇ることを強いられて。


 だからその言葉の続きは、彼女には紡げない。

 祈るだけだ。そうありたかった、そうあって欲しかったと。


「……御子おこが、できたんです。陛下の御子を賜ったんです」


 裙帯くたいを胸で締めているのでわかりにくかったが、小鈴が襦裙じゅくんを押さえると、確かに腹が膨れていた。


「そう。よかったわね、祝福するわ」


「祝福して、くださるんですか」


「もちろんよ」


「ああ……私は、なんてことを」


 雪梅嬪の寛大な心に触れて、あらためて毒を盛ったみずからの浅ましさに慄いたのか、小鈴が頭を振った。


「――――畏れながら、小鈴様」


 事のなりゆきを静観していた慧玲だが、明確にしなければならないことがひとつあった。

 それが今、できるのは慧玲だけだ。


「御渡りがあったのはふた月前でしょう。胎が膨らみすぎています。御典医はご懐妊に相違ないと?」


「……医師には、まだ」


 慧玲は予想していたとおりの事態に唇の端をひき結んだ。困惑していた藍星ランシンに杏如を渡してから、小鈴シャオリンに問い掛ける。


「確かめさせていただいても?」


 否と言わせる隙もなかった。

 小鈴の脈を取り、慧玲は静かに宣告する。


「……残念ですが、御子はおられません。想像懐妊かと想われます」


「うそよ。だって、ちゃんと……ここに」


 小鈴が慧玲の腕を振り払い、自身の膨らんだ胎を押さえた。

 かみ締めすぎて紫になった唇をわななかせ、端からみているだけでも哀れなほどだ。絶望、哀しみ、困惑、疑いと様々な感情が、見張られた瞳のなかを浪のように渡った。


 雪梅嬪は言葉を絶している。

 女官たちもまた小鈴に声をかけることができずにうつむくばかりだった。

 だが不意に、重い沈黙を破るものがいた。母親を恋しがる嬰孩あかごの声だった。藍星ではどうにもならず、雪梅嬪に杏如シンルゥを渡す。雪梅嬪は腕のなかでむずがる杏如を抱き締めて、お母様はここにおりますからねと細い声で語りかける。


「そっか、……そうだったんだ」


 小鈴は現実を受けいれたのか、静かに肩を落とした。


「これで、よかったんです。私は、家族の道具でした、ずっと。でも、今度は私が自身の子孩こどもを道具にするところだった。そのために産もうとしていた。だからこの胎がからっぽで、……よかった」


 彼女は強がって微笑もうとして失敗する。声をあげて泣き崩れた。雪梅嬪はそんな小鈴の肩を抱き締め、女官たちもまた小鈴の背をさすり、誰もこれいじょうは責め続けることはしなかった。

 

 

 小鈴が落ちついた後、黄葉ファンイェ玫瑰茶メイクイファを淹れてきてくれた。異境の薔薇そうびを想わせる香りが漂う。玫瑰メイクイには心の昂りを鎮める効能がある。


「ひとつ、教えていただきたいのですが、あの毒はどうやって入手したのですか」


 小鈴はまわりに警戒しながら、声を落としていった。


「思いなやんでいたときに矢文やぶみが。なかには毒の銀糸と、毒のつかいかたが綴られていました。木簡もっかんは燃やせと書かれていたので、すぐに処分しましたが……なんとか読める程度の荒れた筆遣いでした」


 慧玲はそうですか、といいながらも意外に想った。藍星ランシンに視線をむける。皇后が藍星に毒を渡したときは、貴宮たかみやの女官をつかったという。貴宮の女官ならば、他の宮の女官と接することが殆どないからだ。だがこの度は矢――しかも荒れた字体だったという。


(後宮でも字を書けない女官、宦官は多いが、さすがに貴宮の女官で読み書きが苦手なものがいるはずがない)


 藍星は慧玲がなにを考えているのか、露ほども知らずに、玫瑰茶と一緒に振る舞われた梅枝ばいしを嬉しそうに頬張っている。


(小鈴をつかって、雪梅嬪を殺そうとしたものがほかにいる)


 胸のなかで微かに火が燃える。

 白磁に飾られた茶梅さざんかが一輪、はらりと散った。

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