63 水の毒は巧克力で弾ける

 月に叢雲、花に風という言葉を聞く度に紅梅こうばいのような嬪娥じょうがの姿が想い起こされる。度重なる不幸に見舞われながらも季節を違えて咲き誇る梅のように麗しくあり続ける強いひとだ。


 雪梅シュエメイ嬪。慧玲フェイリンはそんな彼女に敬意を懐いていた。


 雪梅シュエメイ嬪の房室へやはあらんかぎりの花で埋めつくされていた。茶梅さざんか艶蕗つわぶき金盃花きんせんか寒椿かんつばき初恋草はつこいそう酢浆草かたばみ白菊しらぎくと、霜に晒されても咲き続ける強い花たちにかこまれて、雪梅嬪は静かに堪えていた。垂れた腕は滔々と透きとおり、淋漓りんりとして雫がしたたっている。燈火とうかに照らされたその頬は白梅はくばいのごとく青ざめていた。


 寒さは落ちついてきたようだが、猛毒に蝕まれていることに変わりはない。だが彼女は慧玲に視線をむけ、紅唇を咲かせて微笑んだ。


「できたのね」

「調いました。熔岩巧克力蛋糕フォンダンショコラトルでございます」


 慧玲は盆ではなく鍋敷きに載せて、薬を運んできた。

 盃のふちから溢れんばかりに盛りあがった生地が誘惑の香りを振りまいて、女官達がそろって唾をのんだ。


「そう、おいしそうね。……小鈴シャオリン。食べさせてちょうだい」


 腕のない雪梅シュエメイ嬪には匙が握れない。

 小鈴はまだ震えていたが、頷いて薬にゆっくりと匙をいれた。暗雲みたいな生地がさくっふわりと割れて熱々の蜜が溢れだす。巧克力カカオの蜜だ。

 雪梅嬪は息をふきかけてから、それを口に運ぶ。舌に乗せた途端に強張っていた頬がゆるくほどけた。


「なんて、あまいのかしら。こころまでとろけてしまいそうだわ。あなたの薬は……こんな時でさえ美味なのね」


「だからこその薬です」


「ふふ、そうだったわね。小鈴、もっとちょうだい」


 巧克力ショコラは水の薬だが、砂糖や練乳を加えることで土の薬に転ずる。さらに薬能を強くするため、生地には附子ぶしの毒をまぜた。附子は猛毒の植物である鳥兜トリカブトの球根からなる生薬しょうやくだ。水の毒からくる寒さを絶ち、水滞すいたいを改善する効能がある。

 加えて、焼きあがったときに振りかけたのは砂糖ではなく――土だった。


(ただし、珪藻けいそうの食べられる土だ)


 珪藻土けいそうどとは昔から救荒食物きゅうこうしょくもつとしても役だてられた。正確にはこれは土ではなく、藻の死骸や殻の堆積物である。水を吸いとるだけではなく、肌の細胞を強くし繋ぎとめる力もあった。

 土薬どやくで水の毒を吸い、附子ぶしで絶つ。


(残るは木毒と金毒だ)


 匙が差しいれられた瞬間、芳烈な香が弾けだす。錬丹術れんたんじゅつが発明した火薬から造られる、煙火はなびの尺玉が炸裂するように。


(きた)


 底に隠された《毒》だ。

 巧克力ショコラの香りに違いはないはずなのに、明らかに質が異なっていた。例えるならば、濡れた金木犀きんもくせいか。落ち際の梔子くちなしか。

 嗅いだ者を酔心地えいごこちふけらせる芳醇さだ。


 匙を口に運んだ雪梅シュエメイ嬪は瞳を見張った。


「からい……喉まで燃えそうだわ! でも……なぜかしら、ここまでが余興だったのかと想うくらいにおいしい! いったい、なにが隠してあったの」


蠍辣椒ジョロキアの蜂蜜漬けです。こちらを底にいれることで巧克力カカオが完熟し、巧克力ショコラの香に馴れた最後の最後に、最も強い芳香が弾けだすという仕掛けです。それだけではなく、甘みも際だつはずですよ」


 蠍辣椒ジョロキアは現在、知られているかぎりでは最強の辛さを誇る辣椒とうがらしだ。度を超えたしんは猛毒だが、白澤の叡智をもてば妙薬となる。

 巧克力ショコラ辣椒とうがらし。意外な組みあわせだと思われがちだが、実は薬として飲まれていた巧克力には磨り潰した辣椒をいれるのが定番だった。よって巧克力の元祖の味ともいえよう。


「ごちそうさまでした」


 薬を食べ終わり、小鈴が匙をおいたのがさきか。


 雪梅シュエメイ嬪の腕から水しぶきが噴きあがった。膨れあがった水の膜が破裂したのだ。

 女官たちは悲鳴をあげたが、雪梅嬪は眉の端ひとつ動かさずに微笑み続ける。


 それは慧玲にたいする信頼の証だった。


 水の雫が舞い散って華となす。大輪の煙火はなびが打ちあがり、華々しく散るがごとく。滝のように落ちては弾け、水沫はなおも逆巻いた。

 やがて水の乱舞が静まったとき、雪梅嬪の腕は元通りになっていた。


 雪梅シュエメイ嬪は指を握っては解き、これまでのように動くことを確かめる。続けて、彼女は膨らんだ自身の胎を触った。胎児が母親にこたえるように動き、雪梅嬪は安堵の息をついた。


慧玲フェイリン


 雪梅嬪は腕を伸ばして、慧玲を思いきり抱き寄せた。雪梅嬪の柔らかな胸に埋もれ、慧玲は戸惑いながらも視線をあげる。


「貴女にまた、命を助けてもらったわね」


 微笑みかける雪梅嬪からは、どんな甜点心テンテンよりも甘やかな香りが漂ってきた。


(ああ、これが母様のにおいなのね)


 記憶にあるかぎり、慧玲フェイリンは母親に抱き締められたことがない。それに彼女の母親は絹にも髪にも薬のにおいがしみついていた。だが、なぜだか、本能のように母親のことを想いだす。


 その時だ。


「っ……あ、お腹が締めつけられて……」

「は、破水が……ただちに産婆をつれて参ります!」


 解毒の喜びも程々に、雪梅嬪が胎をおさえて喘ぎだす。女官が慌てて吹雪のなか、飛びだしていった。臨月になってから、念のため春の宮に産婆を置いていたため、間もなく駈けつけてくれた。

 慧玲は頭をさげて退室しようとしたが、雪梅嬪はその袖を握り締め、離そうとしなかった。


「貴女もここにいて」

「……承知致しました。無事に御子みこが誕生なされるまで御側におります」


 端紅つまべにの落ちた細い手を握りかえす。


「だいじょうぶよね。きっと健やかに産まれるわよね」

「ご心配にはおよびません。雪梅嬪の御子様みこさまですもの。強い御子おこです」


 医師とはいえどお産の知識がない慧玲フェイリンにはできることなど殆どなかったが、側につきそい、励ます言葉をかけながら雪梅嬪の額から噴きこぼれる汗のたまを拭い続けた。

 雪は知らぬうちにやんで、梅を模った飾り格子の窓から朝の光が差す。やがて暁紅ぎょうこう中天なかぞらに明るい産声が響いた。

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