58 毒の瞳にあばかれる

 風がひとつ渡るほどの沈黙を挿んで、言葉をこぼす。


「慣れてるのよ?」


 彼は妃妾たちとのやりとりをみていたのだ。助けた患者に恐喝され、罵られるさまを。だがこんなことは、これまでも繰りかえされてきたことだった。

 私は、うとまれものですもの、と言い馴れた言葉をひとつ。


 それに、褒められないことには慣れている。患者から御礼をいわれることはあっても、それは褒められるのとは違った。

 彼女の母親は、褒めないひとだった。

 慧玲がいかに速く知識を身につけ難解な書を完璧に暗記しても、複雑な薬を僅かな綻びもなく調えても、白澤の姑娘だから当然だと。

 ああ、だから彼が褒めてくれたことがこんなにも嬉しかったのだ。ひと匙のやさしさでも。


「解ってる。あんたはこんなことでは傷つかない。傷つかないから哀れなんだよ」


 鴆が銀糸の髪に触れる。はなびらでも乗っているのかと想ったが、どうやらそういうわけでもなく髪の房を指に絡めて無為に弄ぶ。


「殺してあげようか、あんたを蔑ろにしたやつらを残らず」


 不穏な言葉を何処までも穏やかにいう。


「……後宮がほとんどからっぽになるじゃない」


「別にいいよ。こんなもの壊れても。そもそも多過ぎだ。どれだけの官費を圧迫しているとおもっている」


 冗談ではない。彼女が望めば、彼は妃妾などいくらでも殺すだろう。それだけの能力がある。


「だとしても、私は望まない」


「そうか、あんたはどこまでも薬なんだね」


 くすりと彼は笑った。


 黄昏の風が吹きつけ、吹雪きだす。まつげに雪のひらが乗った。だが凍てつくような寒さを背筋に感じたのは雪のせいばかりではなかった。

 鴆の視線が、陰る。

 これまでの静けさは、嵐の前触れだったのかと疑えるほどに。


「毒を盛ったものを捜すつもりはないと、貴女はいったね。毒で復讐はしないと」


「……そうよ。私は薬だからね」


 毒にはならない。それだけが、よすがだ。


「お綺麗だね」


 ヂェンは瞳を覗きこみながら、囁きかけてきた。毒を垂らすように。


「ほんとうは、こわいくせに」


 慧玲フェイリンが息をのむ。

 肋骨に指を差しこまれるような。誰にも触れられてはならないものをあばかれたような本能的な恐怖感に見舞われる。咄嗟に鴆を突きとばそうとしたが、腰を抱き寄せられ、腕のなかに捕らわれてしまった。


「あんたは捜したくないんだよ。知ったら、薬ではいられないからこわいんだ」


「違う。私は……」


「だったら、教えてやろうか」


 彼は毒の双眸をぎらつかせる。


「誰が先帝に禁毒ごんどくを盛ったのか。僕は知っている」


「……嘘」


「嘘じゃない」


 雪が舞う鈍色の薄暮はくぼを背にして、毒々しい微笑だけが艶やかだ。慧玲を甚振るようなことをしながら、瞳にある愛しみはそのままだった。それがよけいに慧玲を惑わせる。


 考えたことは、あった。

 父親に毒をのませ、魂まで壊したものを捜しだしたいと。

 だが諦めた。報復できたところで先帝は帰らず、母親が微笑むこともないのだから。けれども、ほんとうは。


 瞳の底でごうとが燃えさかる。胸のうちに抱え続けてきた怨嗟が燃えた。


「違う。私が怨んでいるのは毒を振りまいた父様で――」


「死者を怨むのは楽だね。でも、それじゃいつまで経っても飢えるばかりだ」


 彼の眸に映る慧玲フェイリンの瞳は、酷く荒んでいた。壊れた先帝と同様の眼。先帝は――に飢えていた。慧玲は今。


(私は、毒に飢えている)


 慧玲の喉からひゅうと細い悲鳴が洩れかけたとき、ヂェンが微かに舌打ちをして、突きはなすように身を離した。


「慧玲様!」と声がして、慌てて振りかえれば、何者かが階段をあがってきたところだった。女官だ。ふたつに結わえた髪と、そばかすのある顔には見覚えがある。


「あなたは確か、雪梅シュエメイ嬪つきの」


 小鈴シャオリンだったか。彼女は泣き崩れるように慧玲フェイリンに縋りついた。


「雪梅様が……どうかっ、どうか、助けてください!」

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