57 可乐とひと匙のやさしさ

「集めましたけど……松の葉なんて、どうするんですか」


 藍星ランシンがなにができるのか、想像もつかないとばかりに松の葉を摘まむ。

 慧玲はまず松の葉を洗い、砂糖、水とあわせてみかに漬けこんだ。後はそれをひなたで発酵させる。できあがりを待つあいだに鍋で小荳蔲ショウズク丁子チョウジ桂枝ケイシ香草莢シンツァオジャ沢瀉タクシャ猪苓チョレイ茯苓ブクリョウ白朮ビャクジュツを煮だす。


「これぞ漢方薬! ってかんじですね」


「煮だした生薬のうち、沢瀉タクシャ猪苓チョレイ茯苓ブクリョウ白朮ビャクジュツ五苓散ゴレイサンという漢方薬に配合するもので、水滞スイタイに効能があります。水滞スイタイ酔滞スイタイに通ず。五苓散を服することで酔いの基となる毒を解毒することができます。もっともこれだけでは酒による酔いにかぎられるので、別の薬と組み合わせました」


猪苓チョレイ茯苓ブクリョウキノコですよねえ。なんか、いかにも苦そうなんですけど……」


「それが意外に、さわやかな風味になるんですよ」


 今調薬しているのは遠い異境で造られた漢方薬で、もともとは梧桐あおぎりの一種である種子をいれたそうだが、麻薬成分をふくむため、白澤はくたくの書では敢えて除外されていた。


 しばらく経つと発酵が進み、松の葉に細かな泡がつき始めた。頃あいをみて、松の葉をひきあげ、さきほど煮だした漢方とあわせる。

 琥珀を融かしたような色の飲み薬ができた。


「調いました」

「わあ、なんだか、しゅわしゅわいってますね」


 藍星が物珍しそうにみかを覗きこむ。


「さてと、後は薬を運ぶだけなのですが」


 慧玲が気遣っているのを感じたのか、藍星が言い難そうにいう。


「実はあの風水師様がどうにもだめで」

「だめ、というと……」


 藍星がくわっと瞳を見張った。


「ぞわぞわああぁってなるんですよ! こう……蜈蚣ムカデとか蚰蜒ゲジが背を這いまわるみたいなかんじで、鳥肌が! 理由は、解らないんですけど」


「えっと、……ご愁傷さまです」


 掛けるべき言葉がなかった。ヂェンが大量のむしを潜ませているのを、藍星は本能的に感じ取っているのだろうか。そういうところでは意外に敏い姑娘むすめだから。


せみの抜け殻で失神するくらいだからなあ)


 鴆が飼っている毒蟲どくむしをみたら、暫くは悪夢にうなされるに違いなかった。鴆のことはともかくとしても、毒が充満しているところに度々藍星をともなうのも気掛かりだ。


「わかりました。薬は私が運びますね」


 黄昏がせまり、霙が舞いはじめた。

 今晩は寒くなりそうだ。酔いつぶれた妃妾たちが凍死する危険もある。急がなくては。


 そうはいっても重い甕を担いで冬の宮にむかい、さらに二百段もの階段をあがるのは想像を絶するほどにきつかった。息をきらしながらなんとか階段をあがりきった慧玲は、妃妾や宦官たちに薬を飲ませてまわった。酔って思考がとろけている妃妾たちは渡された杯を喜んで飲みほす。


「……あら」


 意識を取りもどした妃妾が瞬きをする。


「いったい、私はなにを……いやああああっ」


 酔いから醒めた妃妾たちは一様に悲鳴をあげた。

 取りかえしのつかない醜態を晒したことに錯乱して、或いは襲われたと勘違いしたのか、側にいた宦官を殴りだすものまでいた。


「あなた! 渾沌こんとん姑娘むすめよね!」


 妃妾たちはかみつくように振りかえって、慧玲を睨みつけた。


「私達を陥れようったってそうはいかないんですからね!」

「このこと、誰かに言ったら死刑にしてやるから! おぼえてなさいよ!」


 散々な言い様だ。もはや恐喝ではないか。


(うわあ、……逆怨みも甚だしい)


 胸のなかで毒づいたが、表ではおとなしく頭をさげた。


「御安心を。他言は致しません」


 妃妾たちは襦裙じゅくんを掻き寄せて、逃げるように階段を降りていく。散々殴られた宦官たちも同様だ。

 すっかりと誰もいなくなってから、慧玲は重いため息をついた。結局は一度も旨いとも言われなかった飲み薬を片づけようとしたときだ。


 桜のはなびらが、滝のように落ちた。

 花が散るという趣きではなく雪崩なだれるような散華だ。つきることのない女たちの欲望ごと、桜は落散おちちる。


「終わったよ」


 名残の花吹雪を潜って、鴆が鐘塔しょうとう棟木むなぎから降りてきた。

 桜の幹を中心に据え、五稜星ごりょうせいを象って鐘塔の柱に縄がかけられている。五稜星は万象の相克を網羅し、また循環させるかたちだ。鴆は風水師は本職ではないというが、充分なほどに風水を熟知している。


「ねえ、それ」


 鴆は髪についた紅のはなびらを掃い落としながら、口の端をあげた。


「僕にはくれないのか」


 慧玲は毒気を抜かれたが、すぐに杯にそそいで飲み薬を差しだす。


「酒でもないのか」

「異境では、可乐コォラというそうよ」


 琥珀を煮つめたような暗褐色あんかっしょくのなかで、透きとおった細かな泡が舞いあがる。杯を傾けて香りを確かめてから、鴆は薬を飲んだ。


「これはめずらしいね。喉で弾ける飲み物というのはこれまで飲んだことがないな。松の葉を発酵させたのか」


「松は最強の陽木よくぼくだからね。おまえがいっていた重陽節ちょうようせつでも、強すぎる陽を払うために敢えて陽の花である菊をもちいるでしょう。質の違う陽と陽は、互いに喰らいあって相殺そうさいする。だから松をつかったのよ」


 発酵させた飲み物だけではなく、松葉を乾燥させて煎じる茶もまた優れた効能があり、二日酔いに最適な薬となる。


「ほろ苦いが、ふうん、旨いね」


 彼はふっと微笑んだ。

 瞳が紫水晶のように瞬く。悪意も害意もない静穏せいおんな微笑だった。それなりに一緒にいるつもりだったが、彼のこんな表情をみたことはなかった。どくりと鼓動がはねる。


(なんでそんなふうに愛しいものをみるように微笑むの)


 妃嬪たちに振りまいている愛想笑いとも明らかに違っている。慧玲は今後こそ戸惑い、想わず視線を逸らす。頬がなぜか熱かった。


(毒にあてられたわけでもないだろうに)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る