第四部《水の毒》は滴る
56 冬宮の願掛け桜は咲き誇る
後宮にも花の眠る
ずっと晴れが続いているため、雪はまだ降っていないが、風はすでに真冬の寒さを漂わせていた。花が絶えた後宮を飾るのは
春の宮は紅で夏の宮が青、秋の宮は黄金で冬の宮が紫と、宮ごとに異なる灯篭が提げられる。火は朝から晩まで燈され続け、艶やかな灯篭の華が咲きならぶさまは、ともすれば春よりも華やかだ。
冬の宮にむかっていた
「先の
「命を落とされたんでしょう?」
「みなに慕われている
「私は宦官に恋をして自害したと聞いたわ」
通りがかった妃妾達が根も葉もない噂を囁きあっている。
「先の
「毒殺されたんじゃなかったかしら」
光のもとに影ができるように華やかであればあるほどに後宮の陰は、昏い。
◇
それだけならば雅やかなものだ。だがその桜は、人を酔わせるという。
過ぎれば酔いも毒だ。そのため、食医たる
「なっがい階段ですねえ、慧玲様」
「二百段あるそうよ」
「ふえええ、考えただけで眩暈が……」
冬の宮は高殿に高殿を重ねたような、非常に複雑な造りをしている。都からは冬の宮そのものが宮廷の北部に築かれた天を摩する塔に観えるはずだ。冬の庭園もまた、雲上にある。藍星は五十段を超えたあたりでぜいぜいといっていた。
頂上に近づくにつれて風に乗って、騒々しい嬌声が聞こえてきた。祭りか、宴でも催しているような賑やかさだ。
屋上庭園に到着したふたりの視界一面に紅が映る。
桜だ。
屋上庭園には
塔の内部に桜の木が植わっている。
「わあ、これはまた……見事な咲きかたですね」
朝夕に霜の降りる寒さのなかだというのに、桜は枝が垂れるほどに花を咲かせている。八重咲の
「異常ね」
咲き誇る
鐘塔に群がるように妃妾や女官、宦官が犇めいていた。
だが、彼女らの様子は無礼講の花見というには、些か度を過ぎていた。大口をあけて笑い、騒ぎたてるもの。
「うわあ、悪酔いにも程があるというか、みてるこっちが恥ずかしいというか」
「三日三晩、踊り続けている妃妾もおられるそうですよ」
「それ、もはや憑かれているのでは」
それにしても、胸が重くなるほどの
「桜には毒があるのを知っていますか」
「え、そうなんですか」
「僅かですが、桜の葉には毒があって、その葉が根かたに落ちることで土壌に毒がまわり、他の草が育たなくなるそうです。この毒は人が多量に摂取すると、
「お酒も過ぎると肝を壊すと聞きましたよ?」
「そう、違う毒ですが、肝を蝕むというところでは通じるものがあります。ついでにこの毒は
「ぎくうっ、気づいておられたんですね! あははは……す、すみません……」
藍星は薬棚にある
もっとも桜の毒は、人には無毒であるはずだ。
「確かにこれは、白澤の管轄ね」
頭のなかで竹簡が
(植物の毒、
集中を破るように烟のにおいが鼻さきをかすめた。
振りかえれば、唐紅の桜を背にたたずむ男の姿があった。
鴆は
「貴女のところにも依頼がきていたのか」
妃妾を振りきって、鴆は慧玲のもとに駈けつけてきた。藍星が一緒にいるということもあって、慧玲は鴆にたいして深々と頭をさげる。
「
「そんなところだ。宮廷の催事から後宮の騒動、果てや戦線にまで駈りだされて、まったく皇后陛下は人づかいが荒い」
「
言外に毒をつかったのだろうといいたかったのだが、鴆は黙って微笑むだけだった。鴆は続けて藍星に視線をむけ、愛想よく喋りかける。
「ああ、君が食医つきの女官か。僕は
妃妾たちが黄色い悲鳴をあげるのも頷けるような、僅かな曇りもない微笑だ。
藍星のことだ。鴆のような美男子をみれば瞳を輝かせるに違いないと想っていたのだが、藍星の挙動は慧玲の予想とは違った。
「……
藍星はびくつきながら縮こまって、慧玲の後ろに隠れてしまった。鴆が苦笑する。
「僕はなにか彼女を怖がらせるようなことをしたかな」
「い、いえ……どうか、お構いなく」
藍星はさらに身を強張らせる。さながら蛇に睨まれた蛙だった。
これではさすがに可愛そうだ。
「藍星、帰って調薬の支度を。あと、松の葉を集めておいてください」
藍星は慧玲や鴆と違って、毒に馴れていない。この場に留まりすぎては、妃妾たちのように酔いかねなかった。すでに体調を崩しているのかもしれないと気遣って、慧玲は藍星を先に帰す。
藍星がいなくなってから、
「これは、陽の毒よ」
「木の毒ではなく、か」
意外そうに鴆は眉の端をあげた。
「いつだったかは忘れたけれど、妃妾たちが冬の宮にある願掛け桜の噂をしていたの。
「ああ、女が好きそうな話だね」
唾棄するように鴆がいった。
「おまえは知っているでしょうけれど、願い事というのはね、強い陽を帯びているの。陽でも強すぎれば、毒となる」
「
慧玲は頷き、桜に視線を移す。
「まずは、例の桜がここなのか、確かめましょうか」
桜の根かたを掘りかえすと、噂どおりに夥しい程の木札が埋められていた。朱塗の札には、筆で願い事が書かれている。
皇帝が御渡りになるように。
御子ができるように。
家族の病が全癒するように。
愛する御方と結ばれますように。
様々な願いがあったが、なかには「
水が流れるような綺麗な字で綴られた呪詛に慧玲は心底ぞっとした。
「誰がこんなものを」
「さあね。だが、
桜の根は女達の欲望を吸いあげ、絢爛と咲き誇っている。酔う程に強い香を漂わせながら。
「僕は傾いた陰陽を
風水師は毒が続かぬよう、封ず。
「私は薬を調えましょう」
薬師は毒を解く。
其々が役割が違うが、なすべきは一緒だ。
声をあわせていった。
「「毒を絶つ」」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます