幕間

幕間 毒師の独りごと

 いつからだろうかとヂェンは思考を廻らせる。

 緑の袖が風に揺れるのをみるだけで、胸が騒ぐようになったのは。髪に挿した水琴鈴すいきんすずの調べを聴くだけで、振りかえってしまうようになったのは。


 慧玲フェイリン

 彼女は強かだ。

 張りつめた弦のような姑娘。まわりからどれほど疎まれても瞳を曇らせることなく、為すべきを為す、という言葉の通りに働き続けている。


「やあ、奇遇だね」


 鴆が声を掛けると、慧玲は髪をまきあげて振りむいた。銀糸の髪が陽光を弾く。

 まわりに人がいないことを確かめてから、彼女は微笑を移ろわせる。愛想笑いの微笑から棘のある素の微笑に。華の綻ぶような移ろいだ。


「ああ、つけてくれているのか」

「これは邪魔にならないからね」


 慧玲は毒の簪に触れて、なんでもないようにいった。


「貴女らしいな。……折角だったら、左に挿すといいよ」


 鴆は僅かに身をかがめて、簪を挿しなおしてやった。疑わしげに眉を寄せているが、その割には髪に触らせてくれる。彼女は意外なところで無防備だ。愚かしいほどに。


 廻廊を渡って、宦官がやってきた。


 この関係は外部に知られるわけにはいかないものだ。

 慧玲は静かに頭をさげ、遠ざかっていく。鴆が華奢な背を視線で追い掛けていると、宦官が擦れ違いざまに慧玲に声を掛けようとした。だが口籠る。


「私に御用ですか」

「……あ、いや」


 あの宦官は夏頃から遠巻きに慧玲のことをみていた。好意を寄せていたのだろうが、簪を左側に挿しているのをみて息をのみ、項垂れる。


(左側に飾りのない簪ひとつは婚約の証だ)


 彼女自身は気づいていないが、彼女を意識している宦官は多い。宦官とはいっても、もとは男だ。


(諦めろよ。それは僕のものだ)


 遠くから、宦官を睨みつける。

 彼女はいまだに疎まれてはいるが、その才能を認め、頼るものが段々と群がりはじめている。鴆にはそれが訳もなく、不愉快だった。


 いらだちを紛らわすために烟管を咥える。


(僕だけだ)


 慧玲はいつでも微笑を絶やさない。だが、瞳の底の底に燃えさかる焔は、絶えず昏かった。


(僕だけが、彼女の毒を知っている)


 それは彼女も知らないものだ。

 緑の瞳がどれほど昏く、燃え滾るのか。どれだけの矛盾という毒を抱えながら、くだらない償い等に身を擦り減らしているのか。


 それは辛いはずだ。

 だからあんなふうに毒に侵されて、彼女は啼いたのだ。


(貴女は僕と一緒だ。地獄を喰らい、地獄を呑んだ。そう産まれた。それなのに、貴女は綺麗だから、胸を掻きむしられる)


 皇后がいった。だってあなたは、彼女のことが好きでしょう、と。

 あのときは嘲笑して拒絶したが、今ならば認める。愛など理解できないが、愛だとか好きだとか、そういうものが猛毒にも等しいものならば。


(ここまで落ちてきなよ。そうしたらやっと貴女を抱き締めて、優しい接吻くちづけのひとつくらい、できるはずだから)


 烟がまたひとつ。

 青いばかりの穹にあがった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る