55 簪を貴女に

 かささぎの翼を象った黄金こがねの橋を渡る。

 秋宮は何処を通り掛かっても豪奢な造りだ。秋の宴を終えたばかりだというのに、雅楽の調べが聴こえてきた。そういえばこの間訪れたときは古琴こきんが奏でられていた。そのため、秋の宮は音楽の宮とも称されていた。


 慧玲は秋の妃妾の診察を終えたところだった。妃妾は蟬せんべいの効能で瞼の腫れが収まり、季妃ききが催した錦秋の宴にもつつがなく参加できたそうだ。


 今度は雪梅嬪の健診だ。雪が舞う頃には御子が産まれるだろう。

 橋を渡り終わったところで、ふと視線をむければ、庭に建てられた五重塔の壁にもたれて、ヂェンが風水羅盤をみながら何かを測っているところだった。おそらくは風水に綻びがないか、確認しているのだろう。

 風水師としての仕事中だとすぐにわかったが、まわりに宦官や妃妾がいなかったのもあり、慧玲は後ろから声をかける。


「鴆」


 紫の紐で縛られた髪をなびかせて、鴆が振りかえる。慧玲を認めて双眸の端が僅かばかり緩む。彼自身も無意識であろうその移ろい。どくんと、慧玲の鼓動が速くなった。


(……今のはなに)

 

 毒を喰らったわけでもないのに。

 慧玲は戸惑ったが、続くわけではなかったので特に気にはとめず、鴆のもとに駈け寄っていった。


「おまえに逢えないかとおもって捜していたの」


「ずいぶんとめずらしいね、雪でも降るかな」


「借りたままだと落ちつかないのよ」


 借りていた外掛を渡す。羽織ってから、鴆は残念だなと肩を竦めた。


「なんだ、そんなことか。そろそろ、僕を好きになったのかとおもったよ」

「そんな時は永遠にこないから安心なさい」


 用事は済んだからと背をむければ、後ろから袖をつかまれた。


「丁度、僕からも渡したいものがあったんだ。貴女に贈りたくてね」


 差しだされた物に慧玲は瞳を見張る。

 孔雀石を想わせる緑珠りょくじゅがついたかんざしだ。妃妾たちが身につけているものと違って華やかではないが、銀細工の細やかさといい、品がよかった。


「これを、私に? なぜ」


「さあ、なんでだろうね」


 鴆が慧玲の髪に挿してくれた。


「まさか毒なの?」


 訝しんで眉根を寄せれば、鴆は何でもないことのようにいった。


「察しがいいね。そう、これは僕が調えた毒だよ。うちの一族は煉丹術れんたんじゅつを基とした調毒を最も得意としているからね」


 煉丹術れんたんじゅつとは永遠の命を得るために編みだされた術のひとつだ。鉱物を融かして霊薬を調えるのだが、辰砂しんしゃや水銀をもちいるそれは、実際のところは薬どころか猛毒である。後に薬ではなく、毒として珍重されるようになった。特に、貴人を暗殺する毒として。


「この毒は特殊でね、無症状で命だけを奪う。砕いてから誰かに飲ませてもいいし、貴女が飢えた時に飲んでも構わないよ。苦しまずに飢えを紛らわせるはずだ」


 彼がなぜ、このような毒を贈ってくれるのかが理解できず、慧玲は困惑する。取引でも持ち掛けられるのかとおもったが、彼は慧玲が喜んでいるかどうかを覗うように双眸を細めただけだった。


「なんで」

「理由が必要か?」


 鴆が風のように笑った。


「愛だとか好きだとか、そんな綺麗なだけの言葉をならべたところで貴女は疑うだろう? 貴女が警戒するような裏はないよ。僕の毒をあげたかった。それだけのことだ」


 ほんとうにつかみどころのない男だ。


(……でも、ああ、そうだった)


 慧玲は不意に想いだす。


「……誕生日なのよ。十六歳の」


 こうがいを挿したのが丁度昨年の今日だった。慌ただしくて意識していなかったが、またひとつ、齢を重ねたのだ。


「だったら理由ができたじゃないか」


「ありがとう」


 綻ぶように微笑みかけた。

 鴆はへえと意外そうにいった。


「そんなふうに年頃の姑娘らしい微笑いかたもできるんだな」


「おまえ、私をなんだと想っているの」


劇毒げきどくだろう? 強かで、敏くて……それでいて貴女をみていると」


 突風が吹きあがる。彼がなんといったのか、聞き取れなかった。問いかえそうとしたが、妃妾たちが橋を渡ってきたので、結局は訊きそこねる。食医として風水師に頭をさげ、他人のように背をむけた。

 


       ◇

 

 

 久し振りに訪れた春の宮は、桜紅葉の季節を迎えていた。唐紅の葉に飾りつけられた桜の枝は、花の盛りとも劣らぬほどに雅やかだ。雪梅シュエメイ嬪の紅の襦裙は秋景の窓に一際映えた。


「順調ですね」


 おおかたの健診を終えて、慧玲フェイリンがいった。

 まもなく臨月に差し掛かる。出張の間ずっと雪梅嬪の身が気にかかっていたが、何事もなかったようで安堵した。最後にもう一度、脈を取っていると雪梅嬪が目敏めざとく簪に言及した。


慧玲フェイリン。素敵なかんざしを挿しているのね。……殿方から贈られたんでしょう」


 どきりとした。つかみかけていた脈拍が一瞬で解らなくなる。


「まあ、露骨に戸惑っちゃって、可愛い」


 雪梅嬪は鈴のように笑った。


「でも、貴女が受け取るなんてね」


「どういうことですか」


「あら、知らないの? 男から女に簪を贈るのはね、結婚してくれという意なのよ」


 想像だにしていなかったことに慧玲は眼を瞬かせてから、苦笑いした。


「そういう意はなかったものかと」


「あら、なんでかしら。貴女みたいに可愛くて敏い姑娘さんに訳もなく簪を贈る殿方がいるものですか」


「だって私は、渾沌の姑娘ですもの」


 雪梅嬪はため息をついた。


「関係ないわ。恋は、落ちるものなのよ。どんな身分で、どんな経緯があって……なんて理窟はあってないようなものなの」


 だから、こわいのよ、と雪梅嬪は紅に飾られた唇を綻ばせた。秘せる華を覗くように指を添えて、彼女は声を落とす。


「女の勘はあたるの。その男――貴女が想っているよりも、貴女に執着しているわよ」

 


       ◇


 

 玻璃はりで築かれた建物はさながら、信仰のない伽藍がらんだ。天花板からは絶えず虹が降りそそぎ、雪花石膏アラバスタに万華鏡を映している。

 ヂェンは再度、貴宮たかみやに招致されていた。跪いて頭をさげているがその表情は酷く緊張している。

 万華鏡の中央で微笑むのは欣華シンファ皇后だ。


わたしのことを知りたがってくれていると聞いたわ。ふふ、嬉しい」


 戦線から帰還してからというもの、鴆はずっと皇后について探りをいれていた。あのとき、見掛けたのが欣華皇后ではないかという疑惑はいまだにある。調べるにつれて、皇后が不自然な睡眠を取るという事実にいきついた。


(彼女は眠り続けているのではなく、不在なのではないだろうか)


 夏妃かきの事件のとき、誰もが貴宮に部外者が訪れたかどうかに意識をむけた。皇后が貴宮を離れるはずがない――そう、無意識に想いこんでいる。だが、皇后が出掛けていないという証拠は何処にもないのだ。もっとも鴆の憶測が正解だとして、皇后がなぜ最前線にいたのかが解せなかった。


「……貴方はいったい」


「ふふ……でも、いいのかしら。そんなふうによけいなことばかりに御熱をあげていて。あなたはあなたの復讐のことを、ちゃんと考えないと……が哀しまれるんじゃないかしら」


 隠し続けてきた鴆の殺意がぞわりと溢れた。激情に駈られた鴆が咄嗟に袖から毒蛇を放ちかけたのがはやいか、欣華皇后が制するように袖を差しだした。


「っ……」


 瞬時に冷静さを取りもどして、鴆はまわりに神経を張りめぐらす。

 いま、この場にいるのは鴆と欣華皇后のふたりだけだが、意識を砥ぎすませば至るところに護衛が潜んでいるのがわかった。鴆が殺意をもって動けば、蛇が皇后に牙を突きたてるまでもなく、取り押さえられるだろう。


「……なんで、僕の素姓が解った」


 毒師どくしといっても、この大陸には多様な一族がいる。彼が件の毒師の系譜だと欣華皇后に解るはずはなかったのだ。


「だって、あなた。お父様の若い頃にそっくりなのだもの」


 鴆が凍りつく。


「違う――」

「違わないわ。あのひとのことは、妾が誰よりも理解しているもの」


 皇后の微笑は底知れなかった。奈落だ、眩むほどに光耀な。


「ねえ、お願いしたいことがあるの。あなたに妾つきの風水師になって欲しいのよ。あなたはとても有能だもの。……なってくれるかしら」


 鴆は視線を彷徨わせる。

 これは、命令だ。是というほかにない強制。だが――皇后つきに昇格できることは彼にとっても都合がいい。如何なる罠かはわからないが、不入虎焉得虎子虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。皇后の懐に入れば、彼の望みの実現がまたひとつ、近づく。


(どういう魂胆かは知らないが腹のうちから喰い破ってやるよ)


 鴆はこうべを垂れた。睛眸せいぼうの底でごうと怨嗟の毒が荒ぶ。


「承りました」


 静かに、冬の嵐がせまっていた。

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