52 慧玲 後宮に還る

 十日が経って、後宮から迎えの馬車がついた。

 慧玲フェイリンはその後、冬を乗り越えるための知識を可能なかぎり農民達に教えこんだ。燻製くんせいの調理に始まり、罠猟の手順、藁くずで造るもちきかた等。慣れない食べ物ばかりだったが、実食してなるほどこれならば食えると納得させた。


小姐じょうちゃん、ほんとに帰っちまうのか」

「せめて、後七日くらいおってくれても……まだまだ教えて欲しいことさあるにねえ」


 惜しまれつつ、慧玲は藍星を連れて馬車に乗る。農民たちの態度の変わり様に馭者があ然としていた。


 彼らは確かに毒をなした。いかなるわけがあろうと、人を殺すことは罪だ。けれど穏やかな農民を毒にしたものがいたのもまた、事実だ。そもそも毒とは外敵から捕食されないために身につけるものなのだ。


「最後に御伝えしたいことがあります」


 すがるように馬車の窓に駈け寄ってきたチャンズゥに慧玲は語りかけた。


「畑ですが、現在の灌漑かんがいを塞いで新たな水路を設けてください。畑に残留した石英は二年から三年経てば火雀が残らずたいらげてくれるはずです。……ご先祖の畑です。どうかこれからもお大事になさってください」


 慧玲の言葉にふたりは瞳を潤ませ、有難う有難うと頭をさげた。


 罔靑ワンチィは険峻な峡谷地帯だ。急崖に青い網をかけるように棚田を造るのにどれほどの苦難があっただろうか。想像を絶する。椙は「土地を開墾したご先祖に申し訳ない」と何度も口にしていた。償いようのない罪で父祖の地を毒してしまったことを後悔していると。


「皇帝陛下にも御伝えしておきます。罔靑ワンチィではむこう五年は収穫が見こめないと。皇帝陛下は……その、御温情のある御方ですから、暫く免税していただけるかもしれません」


 皇帝が動かないのは事態の把握をしていないためで、皇后陛下を通じて報告すれば、免税という処置をしてくれるだろう。


(おそらくはどの段階で免税していいのか、陛下はいまいち解っていないはず。臣下達が免税の必要はないといえば、それでいいと思ってそう。……臣下は臣下で、免税して自身たちの取り分が減るのは嫌だとか、勝手なことを考えてそうだ)


 先帝ならば、まずは実際に現地に赴いたはずだが……現在の皇帝は宮廷のことで忙殺されているのだろう。


(御子もできないしなあ)


 こんなことを表でいったら、それこそくびがとぶ。


「何から何まで、恩にきる。どうか達者でな、小姐じょうちゃん」

「皆様もどうかご無事に春をお迎えできますように」


 馬車が動きだす。手を振り続ける村人達に最後まで窓から身を乗りだして、袖を振りかえした。皆の声が聴こえなくなってから、藍星が心配げに顔を覗きこんできた。


「体調はだいじょうぶですか」


「すっかりと。たぶん、疲れていたのでしょう」


 嘘だ。体調は悪化し続けている。熱は落ちついたが、朝から晩まで割れそうな頭痛に苛まれ、食欲もない。だが体調不良の理由を理解している慧玲は落ちついていた。


(後三日、乗り切れば)


 あれきり、調薬がなかったのは助かった。毒を扱うときは全神経を砥ぎすます。一縷の綻びも許されないからだ。だがこの体調では、どれだけ気をつけていても何処かで失敗しかねなかった。


 気を紛らわすために窓の風景に視線を移せば、すでに落葉が始まっていた。腕を伸ばして舞い落ちる銀杏の葉をつかむ。森は錦の絹を解いて、今度は雪の絹を纏い、春まで眠りにつく。万物は衰えては甦り、盛えては衰退してを繰りかえす。死なないかぎり。

 彼らの祖父の地も暫しの眠りにつき、かならず甦る。

 それこそが万物の循環なのだから。



       ◇



 後宮は華やかな秋の盛りを迎えていた。

 罔靑ワンチィと違って後宮の秋は暖かく、燦燦と降りしきる陽光にはいまだに夏の余韻が残っていた。報告のため、貴宮たかみやに赴いた慧玲だが、橋のたもとにいる衛官に制められた。


「皇后陛下は今、誰ともお会いしない」

「なにかあったのですか」


「皇后陛下は御就寝しておられるのだ。眠りを破ることは何人も許されぬ」


 そうはいわれても時刻はまだ昼になったばかりだ。昼寝ということだろうか。


「何時頃でしたら、お逢いできますでしょうか」

「明日か明後日か……」


 そんな眠るはずがないだろうに。別に会わせてもらえない理由でもあるのだろうかと疑った。報告だけならば日をあらためても構わないのだが、すぐにでも欣華皇后に会わなければならない事情がある。


(……いくらなんでも、これいじょうは、えられない)


「どうしてもお会いさせていただきたいのです」

「ならぬ。皇后陛下がお眠りになられているときは女官でも入室できない。皇后陛下は一度お眠り遊ばされると、ひと月でも眠り続けられるからな」


 しらっと言われた言葉に思わず頬がひきつる。


(皇后さま、熊じゃないんだから)


 慧玲の胸のうちを知ってか知らずか、宦官かんがんの衛官は幸せそうに恍惚と笑った。


「欣華皇后は天仙のような御方だ。あの御方のことならば、何があろうと驚かんさ」


(いや、さすがに驚けよ)


 危ない、声にでるところだった。


「皇后陛下に御仕えできて、無常の喜びだ」


 完璧に話が明後日の方角にずれはじめている。

 確かに欣華皇后は幽玄な雰囲気を漂わせているが、生身だ。いくらなんでもひと月も飲まず食わずで眠り続けたら、衰弱するはずだ。


「……そういうわけで、貴宮たかみやには」


 からからからと遠くから車輪の音が響いてきた。

 橋の先に視線を凝らせば、ふたりの女官をひき連れて欣華シンファ皇后そのひとが姿を現す。


「まあ、慧玲、無事に帰ってきたのね。よかったわあ」


 衛官は仰天し、慌てて跪いた。慧玲もすぐに両手を掲げ、長揖する。


「ただいま帰還いたしました」

「心配していたのよ。大変な旅だったでしょう? 痩せたのではない?」


 皇后は慧玲を抱き寄せ、ねぎらってくれた。慧玲は恐縮して、いっそうに低く頭をさげる。混沌の姑娘などが皇后に褒められていては衛官が気分を害するのではないかとおそるおそるうかがったが、そもそも彼は欣華皇后に逢えた喜びで魂が抜けそうになっていた。


「……あの、御就寝になられていたのでは」

「貴女が還ってくる頃だとおもって、起きたの。ちょうどよかったみたいね」

 

 皇后に報告しなければならないことばかりだが、さすがにこんなところで諸々を報告するわけにもいかず、慧玲は皇后にしたがって貴宮にむかった。





「……つきましては、こちらを陛下にお渡し願えませんでしょうか」


 罔靑ワンチィで蔓延していた毒疫は解毒できたが、田の修復までには五年ほど掛かるため、飢饉が続くと報告した。最後に免税の嘆願書を渡す。欣華皇后はそれをこころよく受領してくれた。

 また罔靑に派遣され、死亡した官吏たちが水晶を持ち帰っている危険があるので、転売などされていないか確認してくださいと頼む。都に毒疫が持ちこまれては大変だ。


「ほんとうに素晴らしい働きだったわね。さすがは妾の可愛い食医さんね」


 欣華皇后は満足そうだ。


「……最後にふたつ、お尋ねしても宜しいでしょうか」

「まあ、なにかしら? 妾に解かることだったらいいのだけれど」


 乾いて青ざめた唇をひき結んでから、慧玲は問いかけた。


藍星ランシン兵部尚書へいぶしょうしょ姑娘むすめだそうですね。皇后陛下は御存知だったのでしょう?」


 正確には、復讐を諦めかけていた藍星に、先帝の姑娘が生き延びていることを報せたのは皇后の誘いであろうと。


「だって」


 欣華シンファ皇后は、桜が綻ぶようにうっそりと微笑んだ。


「貴女はいかなる毒をも絶ちて薬に転ずるのでしょう? ……現に藍星の毒も薬にした。貴女は妾の想ったとおり、素晴らしい白澤の姑娘よ」


 皇后は僅かな悪意も覗かせずに香る。毒のない華などあるだろうか。まして、これほどまでに麗しくありながら。


「……有難き御言葉です。藍星に毒を渡したのも、皇后陛下ですね」


 藍星は会ったことのない妃嬪だったといっていた。後宮で顔をあわすことがないのは貴宮の女官くらいだ。皇后つきの女官はみな、妃嬪の格を有している。


「ええ、とても貴重な毒を貴女のために取り寄せたのよ。……助かったでしょう?」


 毒に侵されたときのことを想いだす。痺れに始まり割れそうな頭痛に見舞われ、暫くは転げまわった。心の臓が暴れ続け、肋骨をつき破るのではないかと想うほどに苦しかった。それでも――あのとき、慧玲には毒がだった。


 あれがあったから、患者たちの解毒が終わるまで体調を崩さずに済んだのだ。

 皇后のそれは厚情だ。だから彼女は降服するように頭をさげた。


「御恩に報いるべく、これからも努めて参ります」


「疲れたでしょう。帰って、今晩はゆるりと旅の疲れを取ってね」


 慧玲が咄嗟に視線をあげ、皇后を振り仰ぐ。揃えた指が震えだした。慌てて頭をさげる。雪花石膏アラバスタの床に自分の顔が映っている。

 なんて酷いをしているのだろうか。

 飢えて渇ききったは、実の姑娘を殺そうとした時の先帝の瞳と重なって背筋が凍えた。

 皇后はそんな彼女の様子をみて、慈悲を施すように袖を差しだす。袖に結わえられた鈴が綺麗に鳴る。


「陛下から御預かりした《盃》は、すでに離舎に届けてあるわ。そう、あんなに強い毒でもたりなかったのね? こんなに飢えて……」


 盃と聴いただけで飢えがこみあげ、慧玲がごくりと喉を動かす。皇后は緩やかに身をかがめて頭上から囁きかけてきた。


「……可哀想に」


 哀れみの言葉と一緒に花のが降ってきた。息もつまるような強い馨りだった。

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