51 毒を解いて呪いを解く

 青銅に毒はない。

 銅にできる緑青ろくしょうという錆は有毒だという噂があるが、それは誤解だ。

 だがほんの一部の、老いすぎた青銅は毒に転ずることがある。地脈のなかで眠り続けているあいだ、鉱物は老いることがない。だが睡眠を破られた鉱物は、老ける。人の髪に霜が降るように錆がまわるのだ。


藍星ランシンの一族が継承し続けてきた秘蔵の剣だといっていた。千年は経っているだろう。そろそろ眠りたいのでしょうね)


 後で錆落としを試みるとして、ひとまず今は薬が最優先だ。

 毒は解りやすく、薬は難解である。金の毒でも水晶を介する毒と青銅からあふれだす毒とでは異なり、毒を解くための薬もまた違う。


(毒抜きした彼岸花が、まだちょっと残っていたはず)


 彼岸花は強烈な火の毒にして薬だ。しかしそれだけでは錆の毒は解毒できない。だからあるものとあわせる。


「……調いました。珍珠タピオカ入り山葡萄酢です」


 四半刻経って、できあがったのは透きとおるような赤紫の飲み物だった。底には真珠を想わせる珠がしずんでいる。藍星は一瞬だけ、ぱっと瞳を輝かせたが、すぐに唇の端を結んだ。まだ薬を飲むことに抵抗があるのだろうか。


「飲んでくれますね?」

「……飲みます。死にたく、ないですから」


 藍星ランシンは震える指で杯を傾け、薬を飲む。赤紫の清らかな薬が穏やかに波うった。


「……ほんとにおいしいんだから、嫌になりますよね。蟬の抜け殻も、彼岸花も……全部。貴方の薬はおいしい」


 降参するように彼女は眉を垂らして、微かに笑った。


「これはなんですか。甘酸っぱくてさわやかな味ですけど」

「蜂蜜が思いのほかに余っていたので、蜂蜜と酢をあわせ、熟した山葡萄の実を数日漬けておいたんです。後々、なにかの役にたつとおもって」


 時間が経つと熟成して、まろやかな果実酢ができる。それを水で割れば、健康によい飲み物になるのだ。

 酢にふくまれる酸は錆を分解する。金の毒の解毒に最適だ。


「それじゃあ、底にあるのは? むにむに、もちもちしてて楽しい食感ですけど」


珍珠タピオカといいます。ほんとうは木薯キャッサバという芋の根からできるんですが、この森にはないので、彼岸花からつくりました」


 なお、木薯にも毒がある。

 澱粉は小麦粉を練った生地のようにはまるめられないので、布につつんでから振りまわして、かためた。丸薬のようなそれを炒ってから、茹でれば珍珠タピオカのできあがりだ。

 このふたつで錆の毒を絶つ。


 そのときだ。奇妙な音が鳴りはじめた。

 硝子の杯が共振するような硬質で透きとおった響きだ。それは藍星の胸から聞こえてきた。


「な、ななっ、なんですか、これ」


 はだけた衿もとから覗く胸の罅割れから、ぼろぼろと緑青が剥がれてきた。残された浅い傷から滲むように血潮が溢れだす。藍星が悲鳴をあげる。


「いった……やだ、こわいっ……なんで、傷」


 彼女は死を考えていたくせに細かな傷の痛みを怖がる。

 慧玲フェイリンは安堵する。それが彼女の死にたくないという意識の表れだ。だから毒は、解ける。


「肌が罅割れているのに、これまで痛まなかったことがまさに毒の影響だったんですよ。我慢してください。今は痛んでも、傷はすぐに塞がりますから」


「っ……わかりましたよ、我慢します」


 最後の青い錆がぼろりと崩れた。怨み続けなければ。殺さなければ。死ななければ。そんな傷ましい呪詛が解けるみたいに。


 胸から赤い血潮を垂らしながら、藍星は暫く唇をかみ締めて、黙り続けていた。なにかを飲みくだすように。

 森の喧騒が緩い浪のように押し寄せ、また遠ざかる。


「…………ひとつ、教えてください」


 藍星が静かに問い掛けてきた。


「貴方は、誰にでも薬を差しだす。殺されかけても、怨まれてても……ねえ、おかしいじゃないですか。患者が医者に助けを求めるものなのに、これじゃまるで貴方のほうがみたい。貴方は医者で、薬師で、患者の命を握っているはずなのに……なんで」


 慧玲は緑の双眸を細め、微笑む。微かに孔雀の笄が鳴った。


「食医で、薬師だからです。生殺与奪の権を握るのは軍人の役割です。医の道に携わる者にその権利はない。私たちにある選択肢はひとつです」


「生かすこと?」


 いいえと頭を横に振る。

 

「天命には抗えぬこともあります。人の身たる私達にできるのは患者が楽であるよう、力をつくすことです」


 意外だったのか、藍星が瞬きをする。


「……苦しみのなかで無理に延命するのではなく、苦を取りのぞいて楽になるように働きかける。それが薬のあるべきかたちです」


 だから薬には、楽という詞が組みこまれているのだ。

 藍星は眦を緩めた。


「懐かしい……父様が、いつだったか、似たようなことを」


兵部尚書へいぶしょうしょが、ですか?」


「兵部の心得じゃなくて……帝たるは"民草が楽であれと務むる者"だと。ゆえに帝は奴婢よりも奴婢である――だからこそ、命を賭して身を奉るにふさわしいのだと」


 藍星はそこまで語ってから徐に背筋を伸ばして、慧玲の姿を焼きつけるように見据えた後、神妙に額づいた。


ミン 藍星ランシン。この時よりツァイ 慧玲フェイリン様に忠誠を誓い、命あるかぎり御仕え致します。……先帝じゃなくて貴方が皇帝だったらよかったのに」


「……私が男だったら、今頃処刑されていますよ」

 

 慧玲は苦笑した。


 先帝の実子はそもそもが危険な火種だ。宮廷の内部には様々な思惑をもつ者がおり、実子自身の意思に係わらず帝位継承権を握るものを操って利を貪ろうとする輩も多い。嫡子であれば、現皇帝も排除せざるを得なかっただろう。

 いまだって現皇帝は慧玲が姪だから、慈悲をかけているわけではない。白澤の叡智が必要だから、一時処刑を取りさげたに過ぎないのだ。それもいつまで続くかは解らない。つい先日も綱渡りをした。あの時、慧玲のくびが落ちていてもおかしくはなかったのだ。

 これからもそんなことの繰りかえしだ。


「後宮から逃げようとおもったことはないんですか」


 思考を読んだように藍星はそんなことを問い掛けてきた。


「後宮は貴方のことを疎むものばかりです。貴方つきの女官になって思い知らされました。食医として貴方を必要とするものはいても、実際のところは敵だらけ。いえ、食医として昇進するほどに貴方を疎むものは増え続けるはずです」


「わかっています」


「だったら逃げませんか。貴方ほどの能力があれば、何処でもやっていけるはずです。……貴方に盛ったあの毒は、後宮で逢ったことのない妃嬪から貰ったものです。私が貴方を殺そうとしていることを知っていて……くれました」


 それはつまり慧玲を殺したいものが他にもいる、ということか。


「逃げませんよ。私には、為さねばならないことがあるから」


 それに彼女はどうあろうと後宮から離れることはできないのだ。皇帝もそれを知っているから、彼女を後宮の外部へと派遣した。鴆は篭の孔雀といったが、あながち間違いではなかった。 


「さ、そろそろ朝餉の用意を……」

 

 話を終え、腰をあげた慧玲は激しい眩暈に見舞われ、地べたに倒れこんだ。


「慧玲様!」


 慌てて駈け寄ってきた藍星が慧玲の額に触れる。


「熱っ! ひどい熱ですよ。人を呼んできますっ」

「まって」


 誰かを呼びにいこうとする藍星の袖をつかんだ。


「内緒にしてください。だいじょうぶですから。すぐによくなります。それよりも朝餉のために大鍋いっぱいの湯を沸かしておいていただけませんか」

「…………わかりました」


 藍星は不承ながらも頷いて、庖房にむかった。


(そろそろだとは想ってたけど、もったほうだな……。よかった。調薬のときにこんな眩暈があったら、解毒に失敗していたかもしれない)


 ひとり、安堵の息をつく。


(背に腹はかえられない、か)


 慧玲は袖から彼岸花の球根を取りだして、あろうことか、毒抜きのできていないそれに喰らいついた。当然ながら猛毒だ。かみ締めるほどに舌が痺れ、身のうちが燃える。球根に含まれる二十種もの毒が牙を剥いた。

 それでも彼女は飢えたように毒を貪り続けた。


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