50 罅割れる胸

 田舎の晩は騒々しい。

 雨あがりの月に蛙の歌が絶えることなく響き続けている。時々梟の声が割りこみ、蛙の声の背景では秋の虫たちが賑やかな宴を催している。


 疲れきって夢も視ない深い眠りの底に落ちていた慧玲フェイリンだったが、不意に眠りを破られる。身に刺さるような殺意にさらされて。


 まつげを解いた瞳に映ったのは藍星ランシンだった。

 彼女は青銅の短剣を握り締めている。


(ああ、私を殺しにきたのか)


 表情は影に被われているが、微かに月の余韻を受けた瞳の端は、酷く強張っていた。泣き崩れそうになりながら、なんとか意地だけで踏みとどまっているような、幼けない揺らぎがある。

 藍星が息を詰め、短剣を振りおろす。


「っ……」


 慧玲の胸を貫くぎりぎりで、彼女は短剣の軌道をそらして寝床に突きたてた。

 藁のくずが舞いあがる。細かな埃が月のなかで結晶のようにきらめいた。果敢ない輝きを瞳に映しながら慧玲は微動だともせず、静かに藍星を振り仰いでいた。


「……なんでなんですか」


 藍星が声を荒げた。


「なんで悪逆非道な《渾沌こんとん姑娘むすめ》でいてくれないんですか! 貴方が傲慢で意地悪なお姫様だったら、私はためらいなく貴方を殺せたのに」


 藍星の瞳から涙がこぼれだす。


「先帝は、あなたの大事なものを奪ったのね」


 先帝は暴虐だった。悪辣だった。あらゆるものを無差別に奪い、傷つけ、毒した。渾沌という異称にふさわしく。


「……私の父親は、先帝に忠義をつくした兵部尚書へいぶしょうしょでした」


 兵部尚書といえば、国防を掌る官僚だ。軍師等と違って、戦線において軍を動かす権を握っているわけではないが、人事や兵站を請け負う責任のある役職である。


「真面目一徹で、勤勉な御方でした。私たち家族の誇りだった。でも先帝は、そんな彼を些細な失態ひとつで死刑に処しました。……わかりますか。久し振りに宮廷から届いた荷を解いたら、箱に父のくびが収まっていたときのきもちが」


 わかる、と易くいうことはできない。それでも彼女の絶望を想像することは、できる。慧玲もまた違ったかたちで、敬愛する父親を喪ったからだ。


「幼い妹たちは父親が偶に都のお土産でも贈ってくれたのだろうと思っていました。歓声が悲鳴にかわって。悪い夢だと……でもいつまで経っても、終わらないんです。お母さまはそれきり心を壊してしまって……ねえ、教えてください。お父さまがなぜ、あんなふうに死ななければならなかったんですか」


 許せない。

 藍星は呪うようにいった。


「許せるはずがないじゃないですか。いつか、先帝を殺そうと誓いました。お父様が遺したこの短剣を握り締めて。それだけがよすがでした。でも、先帝は処刑されて」


 琴の糸が切れるように声が震えながら、絶たれた。


「怨みだけが残されました」


 ああ、そうか。彼女は愛する者を喪い、怨むべき者まで喪ったのだ。

 怨むことで心壊さずに立ち続けてきたのに。標もない昏闇のなかに投げだされたような絶望感に苛まれたに違いない。


「その時、先帝の姑娘がまだ後宮にかくまわれている、という噂を聴きました。嬉しかった。やっと、怨みを晴らせると想いました」


 藍星の頬を影が横ぎっていく。月のしょくを想わせる陰りだった。


「……なのに、殺せなかった」


 彼女は絶望していた。

 わずかな沈黙を経て、藍星はひと息に帯を解いて襦裙じゅくんを着崩す。


「みてください、これ」


 月影に晒された彼女の胸は、いた。

 剥がれた肌の罅からは、黄金がかった青銅が覗いている。金と緑をまざりあったそれは月を映し、硬いきらめきを散らす。さながら歪な金継かなつぎだ。傷を埋めるはずが、痕が塞がらないよう、癒えないように呪いをかけてしまったような。


「金の毒……」

「やっぱり、そうなんですね」


 患者をみたときにひっと声をあげたのは、みたこともないような病態だったからではなく、自身の患部を重ねたからだったのか。


「もうじき、私は死にます。だから、もういいの」


 剣の先端が廻され、藍星自身の細い喉に突きつけられた。自害するつもりだ。やめなさいと声をあげ、彼女をめるために動こうとする。


「……っ」


 藍星の腕はがたがたと震え、どうしても喉を貫くことはできなかった。葛藤を経て項垂れた彼女から、慧玲は静かに短剣を取りあげた。


「毒のもとは、この短剣です。青銅には、毒はありませんが……これは造られてから時が経ちすぎています。私に薬を調えさせてください」


 この毒ならば、すぐにでも薬を調えられる。だが患者に解毒の意がなければ、薬だけあっても助けられない。

 藍星は唇をひき結んで、黙り続けている。


 彼女は死にたくはないはずだ。

 だが復讐を果たせなかったならば、死を択ぶべきだとも考えている。まして先帝の姑娘に助けられるなど、許されるはずがない――だが、いったい、誰が彼女のことを許さないというのか。

 彼女は仇を取ることが、父親にたいする敬愛の証だと勘違いしている。死者はどうあろうと許してはくれないし、許さずにいてもくれない。どれほど強く望み、縋ろうとも。許す、許さないは生者の権利だ。


「あなた、妹さん達には復讐のことを告げず、後宮にきましたね」


 藍星の瞳が揺らいだ。


「……生きたいといってください」


 慧玲は静かに訴えた。


(藍星を死なせてなるものか。あんなことを繰りかえすのはごめんだ)


 頭に過ぎるのは青い胡服の後ろ姿だ。薬はあった。だが、フォン妃は薬を受け取らず、火の毒に蝕まれて燃えた。骨も残らなかった。なにを後悔すればいいのか、いまだに解らない。それでもまだ悔やみ続けている。

 藍星の肩をつかみ、慧玲は声を荒げた。


「言いなさい!」

「っ……」


 幼けなく濡れた瞳をゆがめ、藍星は強張る喉から声をしぼりだす。


「…………死にたく、ない……」


 たったひと言だ。けれど嘘のない声だった。

 慧玲は頷く。患者に生きる意志があれば、かならず毒は解ける。

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