49 毒に交われば毒となる

 日はすっかりと落ちて、真昼の晴れやかな青空が嘘のように掻き曇り、強い雨が降りはじめた。紅葉を弾いて滴る雫は血潮を想わせた。

 患者を家に帰してから、チャンは腹を括った様子で声を掛けてきた。


「……小姐じょうちゃん」


 彼はおもむろに両膝をつき、土間に額を擦りつけて詫びた。


「殴ったりしてすまなかった。痛かったろう。それなのに、男孩を助けてくれて……なんと礼をいったらいいのか」


 殺されなかっただけ有難かったと言いかけて、さすがにそれもどうかとおもい、慧玲は敢えてそこには触れずに腕を差し延べた。


「頭をあげてください」

「小姐ちゃん、頼みがある。俺の話を聴いてくれないか」


「聴かせてくださるのでしたら」


 彼らが何故、官戸かんとを殺すに到ったのか。

 雉の頭を落とすこともためらい、命を喰らうことにも抵抗がある農夫ばかりだ。どれほどの怨みがあれば、あんな惨事に踏みきれるのか。


「俺たちゃ、昔からこの罔靑ワンチィに暮らす百姓だ。んだが制度が新しくなって、官戸がここいらの土地を管轄するようになった。それは構わん。俺たちにゃ、難しいことはわからんからな。だが貴族だかなんだか知らねえが、官戸つうのが碌でもないやつらだった」


 佃戸制でんこせい。これは先帝が壊れてから、新たにできた制度だ。基本は地方貴族や豪族がなるものだが、新たに貴族となったものに領地が配分され、管轄権が与えられるという事例もある。だが、支配と被支配の関係は傾きすぎれば、破綻する。


「奴らは鍬を握るどころか、畑なんかただの一度も覗きにもこねえくせして、収穫物だけは根こそぎもっていきやがる。俺たちは雑穀の粥ばっかりなのに、官戸の奴等はいいもん喰って、どんどん肥えて……」


 悔しげに声の端が濁る。それだけじゃねえと椙は唾を散らして声を荒げた。


「奴らは気に喰わねえことがあると、すぐに鞭で俺たちを殴る。若者は散々殴られてこきつかわれ、姑娘らは……玩具みてえにつかわれて」


 後ろで黙って聞いていたズゥがぎゅっと身を縮めた。


「……辛抱ならんかった。あいつら、俺たちを奴婢ぬひだとおもってやがる」


 皺に埋もれた瞳が、濁る。怨嗟と殺意に。

 苦杯くはいを喫して胃の腑まで焼かれながら、彼らがどれだけ堪え続けてきたか。その瞳を覗くだけでも想像がつく。

 人権を殺され、搾取され続ける――まさに奈落の沼底だ。


「だから、蛟様に


 そのひと言には、青銅を割るような、頭蓋を震わせる重さがあった。


 怨嗟は毒だと、もはや語るべくもなかった。それが猛毒であったことを彼らはすでに知っている、その身をもって。


「それからしばらく経って、地震があって……こんなことになっちまった」


 そのときの、彼らの絶望は言葉につくせないものだろう。身のうちから凍りつくような恐怖があったはずだ。祟りだと思いこむほどの。


「あの泉は、もとから金に強く傾いた土地です。その影響で地下鉱脈から《金の毒》が噴きだしている。水晶というものは通常、地上では成長しません」


 もとはそうした調和の崩れた地に踏みいったり、房屋いえなどを建ててしまったりして、心身に異常をきたすことを地毒の障りといった。いまは不調和が広範に渡り、万物が地毒に転じやすくなっているが、ほんとうは地毒とはもっと局所的かつ限定的に表れるものなのだ。


「ただでも強烈な金の毒が渦まく泉に陰の毒が投じられた。死穢は金毒を帯びます。金の毒を吸い水晶は異常な成長を遂げ、地割れを起こした。泉の地毒を帯びた水が灌漑に流れこみ、畑にそそぎ、このような毒疫どくえきとなったわけです」


 すべてが最悪の重なりかたをした。或いはこれも天毒てんどくの障りか。


「……なあ、食医の小姐じょうちゃんよ。一連の事件を報告するか? 報せてもいい、だがその時は……俺がひとりでやったことにしてくれるか」


 チャンが決意した様子だったのはこのためだったのか。

 梓は青ざめ、慌てて声をあげた。


「椙さん! そんなの」

「老いぼれひとりが捕まって、頚でも刎ねられて全部が終わるんだったら、それがいい……罔靑を開墾した先祖にも頭をさげにいかねえと」


 残っていた他の村人達も「チャンさん」と縋ったが、彼は腹を据えている。実る稲穂のように頭を低く垂れた。


「頼む、小姐ちゃん」


「いったはずです。私は食医です。毒疫を治療するためにきました。私がついたときには官戸はすでに毒に侵され、命を落としており、助けられなかった。……お悔やみ申しあげます」


 慧玲が言わんとしていることを理解して、椙は眼を見張る。

 毒とは人を害するものだ。慧玲は官戸こそが毒だったのではないかと想う。人の心身を蝕み、害する毒。毒に侵されたものは毒になる。それもまた条理だ。


「それに……罰ならば、あなたがたはすでに受けた。いえ、これからまだ、続きます」


 知恵をつくして飢えを乗り越え、春を迎えた後は父祖から受けついだ棚田を棄てて、新たな田園を造らなければならないのだ。


「私から授けられる知恵ならば、託します。迎えがくるまで、教えられるかぎりのことは教えましょう」


「ああ、恩にきる」


 かみ締めるように頷き、椙は笑った。


「だいじょうぶさ。俺たちゃ百姓は、しぶといからな」


 彼らの瞳に絶望はなかった。

 絶望は踏み越えてきて、すでに遠い後ろにある。後は進むだけだ。

 雨はあっというまに止んでいた。

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