53 貴女ほどの毒は知らない

 上弦の月には疎らな雲が掛かっていた。

 月が頼りにならない冥暗のなかでも提燈を提げず、青竹の間を進む人影があった。ヂェンだ。彼にしてはめずらしく物音を殺さずに笹を踏みわけ、慌ただしく離舎りしゃにむかっていた。


 鴆が宮廷に帰還したのは慧玲フェイリンが後宮に帰ってきた一刻後いっこくあとだった。彼は慧玲とは丁度入れ違いに欣華シンファ皇后のもとを訪れていた。

 欣華皇后は鴆の功績を称えて終始満足そうに微笑んでいたが、ふっと掻き曇るように眉を垂らした。


慧玲フェイリンも先程還ってきたのだけれど……陛下から、盃を賜ったわ」


 鴆は一瞬、耳を疑った。

 宮廷で盃といえば毒盃のことだ。賜死、つまりは皇帝が彼女に死を命じたということになる。狼狽ろうばいを覗かせそうになり、すぐに隠した。


「何故、その話を私に?」

「だってあなたは彼女のことが好きでしょう」


 不意をつかれ、今度こそ眉の端を動かさずにはいられなかった。好きだとか愛だとかという言葉を女はやたらと好む。


(ばからしい)


 かといって皇后に言いかえすのもどうかと思い、鴆はわざとらしく丁重に頭をさげた。


「御高察のとおり、愛しい彼女の身が気に掛かりますので、これで失礼致します」


 後ろから「まあ、可愛くないひとね、ふふふ」と笑い声が追い掛けてきたが、振りむかなかった。


 貴宮を後にした鴆は離舎へのみちを進みながら、訳のない苛だちを感じていた。他人のことでこうも情緒を掻きみだされたことはない。誰かにたいして考えることがあったとすれば、どうやって殺すか、だけだ。なのに何故、彼女のことにかぎって胸を離れないのか。

 好意かと問われれば、おそらくは違う。けれど執着している。執着せずにはいられない。


(慧玲……ほんとうに劇毒げきどくみたいな姑娘おんなだよ、あんたは)


 離舎りしゃは静まりかえっていた。ここが静かなのはいつものことだが、あかりひとつ燈されていないのは妙だ。


「慧玲、いないのか」


 房室へやに踏みこむ。しみついた漢方薬のにおいがした。薬を調えるために必要なものを除けば、私物といえるものはなにひとつない殺風景な房室へやの隅で、壁にもたれて脚を投げだし項垂れている慧玲フェイリンがいた。


 眠っているのか。それとも――確かめようと腕を伸ばしかけたとき、風が吹いて円窓から青ざめた光が差した。


 ヂェンは想わず息をのむ。

 月影に擁された姑娘むすめの横顔があまりにも奇麗だったからだ。白磁を想わせる頬に貝殻のような耳。銀糸のような髪がひと筋、血潮に濡れた唇に張りついている。会えば透きとおる瞳で果敢に睨みつけてくる彼女が、今はまつげの端も動かさない。果敢なく、悲しいほどに端麗だった。

 いざなわれるように身を寄せかけた彼は、足許に倒れていたすずの盃を蹴って我にかえる。毒盃だ。如何なる毒かは解らないが、彼女が毒で命を落とすはずがない。


「慧玲……」


 肩をつかみ、揺さぶる。

 帯が解けていたのか、青緑のはだぎが肩からすべり落ちた。素肌があらわになる。


 鴆が絶句する。

 肩から胸にかけて、刺青しせいを想わせる紋様が浮かびあがっていた。象るは孔雀の双翼だ。青い光を帯びた紋様は緩く明滅を繰りかえしている。さながら呼吸をするかの如く。


「これはいったい」


 その時だ。慧玲が突如声をあげた。


 悲鳴、いや絶叫だった。

 櫺子れんじが細かく震えるほどの喚声をあげながら、慧玲フェイリン襦裙きぬをかきむしり、酷く錯乱する。板を掻いた爪の端がばきりと割れた。鴆は咄嗟に彼女をはがい締めにして、取り押さえた。


(毒の影響か)


 慧玲はなおも腕をばたつかせて鴆を振りほどこうとしていたが、ふっと抵抗がなくなった。気絶したのかとおもったが、違った。彼女は感情のこもらない声でぽつりとこぼす。


「…………ごめん、なさい」


 息も絶え絶えに彼女は鴆の袖をつかむ。


「……さま、ごめんなさい……もう、逃げたり、致しません。だから、どうか」


 慧玲が瞼をあげた。だが虚ろだ。その瞳に映っているのは鴆ではない。悪夢に毒された瞳から涙が溢れだす。

 唇を震わせ、彼女は懇願するようにいった。


「どうか、私をください……」


 それきり、彼女は再び意識を落とす。力のぬけ落ちたその身を抱き締め、鴆は視線を彷徨わせる。日頃の強かな態度からは想像もつかないほどにその身は軽く、いまにも壊れてしまいそうだった。


(……なんでこんなに心を乱されるんだ。僕らしくもない)


 また雲が月を奪う。

 微かに光を帯びた孔雀の紋様だけが、妖しく呼吸をしていた。




       ◇



 

 すずの盃にはひと匙の地獄がそそがれている。

 ひとくち飲めば、腹が燃えて胸は凍てつき、頭は軋み、意識は崩れる。それでも彼女は毒をのむ。毒を望む。

 地獄のふちに彷徨う意識に微かだが、烟の香が触れた。鼻に残り続けていた華の香りを振り払うみたいに。


 解毒が終わり、意識を取りもどした慧玲は誰かの腕に抱きかかえられていることに気がついた。瞼をあげれば、月影を映して瞬く紫があった。


「ああ、おまえなのね」


 嗄れた喉から声をしぼりだす。


「……あんた、身のうちになにを飼っている?」

「そう、紋をみたのね」


 解毒を終えれば紋様はなくなる。鴆が解毒の最中にきたのだとすれば、酷い醜態を晒していたに違いない。羞恥はあるが、藍星ランシンに知られなくてまだよかったと安堵する。


「あれは毒よ」


 鴆は解せないとばかりに黙す。

 妖麗ようれいしるしはあきらかにただの毒ではなく、地毒に等しい。


「毒を喰らう毒――おまえが知りたがっていたものよ」


「白澤にまつわる毒か」


「違う。先帝が処された晩、私は息絶えたばかりの麒麟にれてしまった――その時、なにかが侵蝕はいってきた。それからよ、あらゆる毒が効かなくなったのは」


 この身に棲まうものは、万毒を喰らう。

 だが、それだけでは終わらなかった。


「たまらなく飢えるの、毒に」


「毒に飢える?」


「月に一度、強い毒を飲まないと、堪えがたい苦痛に襲われるの。毒をのまずにふた月も経てば、きっと息絶えるでしょうね」


 錫の盃に視線を移す。


「宮廷の秘であるこの毒だけが、わたしを満たすことができる。喰らったことのない毒ならば、一時だけは飢えをやわらげてくれるけれど。もって三晩ね」


 藍星に盛られた毒も、結局はそれくらいしかもたなかった。


「だからあんたは、皇帝から賜る毒で命を繋いでいるわけか」


 死刑が取りさげられ、後宮に迎えられたその晩、飢えに見舞われた。

 経験したことのない苦痛に侵されながら、本能に順って朝から晩まで毒を貪り続けた。鳥兜とりかぶとを喰み、月夜茸つきよだけを喰らって、果てには水銀まで飲みかけた頃に現皇帝が訪れた。


 皇帝は万事を予想していたように毒盃を差しだした。

 恩情というかは解らない。皇帝には皇帝の思惑があるのだろうと理解した。


(それでも、毒をのんだ)


 だが毒は毒。解毒できるまでは苦痛に襲われる。

 喰わば地獄、喰らわずとも地獄だ。


「貴女は隠さないんだな」


「他の者には隠す。藍星にも知られるわけにはいかない。おまえだけよ」


 ともすれば愛めいた言葉を紡ぎ、彼女は顎をそらして微笑む。


「おまえは敵だからね」


 鴆は理解できないとばかりに紫の双眸を疑惑に細める。


「へえ、大抵は信頼できる者にだけ隠しごとを教えたいと考えるものだけれどね」


「いったでしょう。私のこれは、毒なの。藍星にも雪梅嬪にも、教えられない。毒を押しつけることになるからね」


「僕には構わないと?」


 慧玲は瞳をゆがめ、頬を綻ばせた。


「そうよ。だって、おまえならば、道連れにしても構わないもの」


 毒と、毒ならば。

 鴆はがらになく意表をつかれたように表情を変え、続けて諦めたようにため息を織りまぜて微苦笑びくしょうした。


「ああ、なるほどね……これは認めるしかないな」

「なんのこと?」


 こっちの話さと彼はいい、頭を振る。ついでとばかりにつけ加えた。


「僕はあらゆる毒に通じてきたが、……貴女ほどの毒は知らないね。そのくせ、まわりの奴等には毒がある素振りひとつみせない」


「私は薬だからね」


「そんな貴女だから、僕は……」


 続きは、言葉にはならなかった。頭を振り、彼はため息をついた。


「それにしても、毒を喰らい続ける、ね。人毒と似ているな」

「なぜ、おまえはその身に禁毒ごんどくを宿したの」


 鴆と逢ってから彼是かれこれ三季さんきは過ぎたが、いまだに知っていることは僅かだ。毒師の一族で禁毒ごんどくを宿す。風水師の学識もあるが、本職は暗殺者だ。彼は果たしてなにを望み、どんな経験を積んできたのか。


「僕が望んだわけじゃない。……」


 彼はまた、なにかを言いかけて黙る。踏みこむべきではない境界線もあるだろうと察して、慧玲は再度問いかけることはしなかった。


 風が吹き渡り、月が差す。上弦の月明かりは雲が晴れてもなお、陰をともなった。

 会話が途ぎれたことで、いまだに鴆に抱きかかえられたままだったと思いだす。いったん意識してしまったら、膝に乗せられているのは落ちつかず、腰をあげた。

身を離しかけたところで袖をつかまれる。


「……」


 一秒に満たない沈黙を挿んで、鴆が黙って指を解いた。


 慧玲は鴆と背をあわせ、窓の縁を飾る月に視線を馳せた。秋の晩だというのに、寒くはないのは背から感じる熱のせいか。


「他愛のない昔の話だよ」


鴆がぽつぽつと喋りだした。


「毒師の一族でも、禁毒に手を染めるものはそういない。禁を破ったのは僕の母親だった。人毒は月の満ちかけにあわせて身のうちに毒をいれ、十三年掛けて調毒する――時間の掛かる毒だ」


 毒を投与するのは基本、十歳以降からだと彼はいった。幼すぎては、毒に克てず息絶えることになるから。


「でも、僕がはじめて毒を享けたのは七歳の時だ。……蜂だった」


 呼ばれたと感じたのか、黒絹の袖から雀蜂が舞いあがった。


「僕は産まれつき毒に強く、すぐに蜂の毒を克服した。雀蜂から肢長蜂、水銀蜂まで試して、今度は蜘蛛になった」


 続けて、締められていた帯のすきまから毒蜘蛛が落ちてきた。瑠璃の蜘蛛は撚糸をはいて、銀細工を想わせる網を櫺子窓に張り巡らせていく。


「これを延々と繰りかえせば、人毒となる」


 慧玲フェイリンは黙って禁毒の経緯を聴いていた。彼がどんな表情をして語っているのか、慧玲には解らない。声の調子から想像することもできなかった。


「……母親を怨んだ?」


「怨むも、怨まないもないさ。そう、産まれたというだけのことだ。僕は毒でなければ、僕ではいられない」


「そう、私と一緒ね」


 さながら鏡だ。それなのに孤独と孤独を重ねあわせても、鏡映しではふたりになれない。でもそれで構わなかった。寂しくとも。ひとつになることだけが、救いではないのだから。


 鴆の背にもたれて、慧玲は椿が落ちるようにつぶやいた。


「おまえ、私のために殺してくれるといったね」

「ああ、いった」


「だったら、いつか、私がこの身の毒に喰われたらそのときは――」

「願いさげだね」


 彼女の望みを察して、ヂェンがすかさずに吐き棄てた。

 ぐいと真後ろから顎をつかまれる。背をそらされ、縛りあげられるように視線を無理に絡めとられた。強い束縛に息すらできない。


「……とっとと毒に喰われろ」


 紫の玻璃を砕いたようなひとみに捕らわれる。


「あんたが毒に喰われて、地獄の底まで落ちてくるのを、この僕が俟っててやるよ」

「……ああ」


 細い息を洩らす。


「おまえはそういう男だった」


 だから、彼には毒をさらけだせるのだ。

 

 刹那の睨みあいを経て、解放される。

 とん、と烟の香が残る背にその身を預けて、慧玲は瞼を塞いだ。信頼もできない男の隣が酷く心地好い。黙りあっているうちに強い睡魔が押し寄せてきた。抗わず、夢の底に身を投じる。

 何故か、今度は悪夢をみない、と想った。

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