32 毒と薬の化かしあい

 罪人 依依の火刑は毒による死者多数、命を取りとめた者も異様な火傷を負うという惨事のうちに幕を降ろした。

 事故から約十日が経っても、後宮には重い絶望感が漂っていた。


「あなた、ツァイ 慧玲フェイリンですわね」


 ふと通りがかった廻廊で声を掛けられ、慧玲が振りかえる。侍女を連れたその妃妾は薄絹張りの団扇うちわで顔を隠していた。


「刑場にいたそうね。それなのに、なぜ、あなたは火傷を負っておりませんの。……わたくしはあれから火傷に苛まれ続け、眠ることもできませんのに」

「私は食医です。適切な処置をしたまででございます」


 ひとまずは頭をさげた。


(……嘘だけど)


 慧玲には毒が効かない。毒による火傷はすぐに解毒され、痕も残らなかった。つまりは解毒しなければ、この火傷は癒えないということだ。


「処置ならば、医官にさせましたわ! なのに、いっこうに傷は塞がらず……医官に訊ねても、しばらくは傷が残るというだけで。しばらくって、いつになれば。後宮にいられなくなったら、わたくしはどうすればいいんですの……ああ」


 息もつがずに喋り続け、頭をかかえて妃妾はよろめいた。つき添っていた女官たちが悲鳴をあげる。


胡蝶フゥディエ様!」

「なんて、おいたわしい!」


 はて、胡蝶フゥディエとは聴いたことのある……そうだ。雨に降られた慧玲フェイリンを嘲笑って、散々悪態をついていた妃妾だったと思いだす。位は正三品しょうさんぽん倢伃しょうよだったか。


「……特別な薬が、ありますのね。だったら、その薬をちょうだい」


 火の毒を解毒する薬を造ることは、可能だが。

 慧玲はあくまでも控えめに頭をさげながらいった。


「畏れながら、私は罪人の姑娘です。私のようなうとまれものが倢伃しょうよ様に薬を調えるのはあまりにも分を超えております。失礼にあたるのではないかと」

「そんっ……なこと」

「死んだほうがましだと、仰せになられていたので」


 胡蝶フゥディエ倢伃しょうよはあのときのことを想いだしたのか、わなわなと震えだす。火傷の絶望でよほどに心が折れかけていたのだろう。彼女はなりふり構わずに頭をさげた。


「ご、ごめんなさい……わたくしは、酷いことを……謝罪いたしますわ。ですから、どうか、助けてくださいまし……!」


 ほそる声で縋りつかれ、慧玲は眉の端を微かにあげた。


「ねえっ、ご覧になって……? つらくて、つらくて……鏡を覗く度にいっそあの時に死んでいればと……」


 胡蝶倢伃は掲げていた団扇うちわをさげた。

 現れた顔は確かに惨たらしく、崩れていた。左側の額から頬にかけて、どろりと熱した鉄でも垂らしたように焼けただれている。火傷は膿んでいて、まだまだ傷が塞がる様子はなかった。まぶたはひきつれ、睫毛はぬけ落ちている。

 もとが華やかな美女だったからこそ、その異様さは際だつ。


 だが慧玲が息をのんだのは、火傷というには呪詛じみた火の文様だった。さながら紅の刺青いれずみだ。


 それでも、彼女は生き残った。あのとき、実際に命を落とした者も大勢いたのだ。


「ひとつだけ、非礼を承知で申しあげます」


 慧玲フェイリンは静かに唇を割った。


「『死んだほうが』『死んでいれば』……そのような言葉は、声にされないほうがよいかと。それ、毒ですよ」


 胡蝶倢伃は「あ」と唇をひき結ぶ。


「ご安心ください」


 慧玲は頬を綻ばせ、笑いかけた。


「私がいかなる毒をも絶ちましょう」

「ほ、ほんとうに……助けてくださいますの」

「ええ、嘘も毒です。私は毒はきません」


 さきほどちょっとばかり棘を織りまぜたが、まあ、偶にはいいだろう。

 胡蝶フゥディエは錯乱していて記憶にないようだが、彼女を軒まで連れていったのも慧玲だった。そのときは胡蝶であることに気づかなかったが……解っていても、助けただろう。


(彼女に頼まれずとも、薬は調えるつもりだったけれど)


 今朝がた、欣華シンファ皇后から依頼があったのだ。傷ついた華たちを助けてあげてちょうだい――と。


 毒は絶つ。そのためには手段は択ばない。

 そうすることだけが、彼女を薬たらしめるのだから。


 

      ◇

 


「それで、食医さんが僕に何の御用かな。風水では役にたてないとおもうけれど」

「毒師としてのおまえに頼みがあるの」


 紅の花が咲き群れる百日紅サルスベリの根かたに呼び寄せた。夏の宮そのものが新たな季妃ききを選抜するのにいそがしく、花を眺めている暇もない様子だが、はずれの小島は特に閑散としている。


澤蟹サワガニをいくつか、わけてもらいたいの」

「澤蟹だったら、そこらにいるだろう」


 夏の宮の水縁には亀や鯉、蟹等も棲息している。


毒蟹ドクガニが要るの」


 蟹は餌とするものによって毒を保有する。つまり、毒蟹は造れるということだ。まさに毒師が飼育するのに適した有毒生物であり、彼が飼っている蟲のなかにいるだろうと推察したのだ。


「確かに僕は毒蟹を飼っている。……だが、ただではあげられないな」


「そうでしょうね。でも、私は何も持っていないの。患者ならばともかく、いまのおまえは薬も要らないはず。私にできるのはこれくらいね」


 慧玲は鴆の袖を引っ張り、つまさきだって唇を重ねた。


「ん……」


 息を奪いあうように舌を絡める。唾がまざりあって、濡れた音を奏でた。一瞬毒気を抜かれていた鴆が瞳を見張り、ばっと身をつき放す。


「っ……なにを飲ませた」


 喉を押さえて、鴆が呻いた。


「なんだと想う?」


 慧玲がちろりと舌を覗かせる。

 口のなかにある物を含んでおいたのだ。毒に免疫のある彼にでも、すぐに効くようなものを。毒を絶つためならば、手段を択ぶつもりはなかった。つかえるものは、なんでもつかう。


「……毒師に毒を盛るなんて、いい度胸だね」


「嬉しいほめ言葉ね」


 慧玲は微笑をこぼして、手を差しだす。


「いまのあなたにならば、薬が必要でしょう。さあ、薬が欲しければ、毒蟹を渡して」


 ヂェンは罠にかけられて毒を盛られたというのに、嬉しそうに嗤った。曇った鏡のような瞳睛ひとみのなかに毒々しい紫が映る。


「どれだけ薬だといい張っても、貴女の本質はやはり《毒》だ」


 解りきった挑発だ。彼女は努めて静かに言いかえす。


「どちらもおなじものよ。毒も薬も紙一重。裏か、表かというだけ」


「違いないね。はは……こまったな、貴女のことがほんとに好きになりそうだ」


 降参だというように鴆は肩を竦めた。漢服かんふくの袖から、ぼたぼたと蟹が落ちてきた。いかにも毒のある青い蟹だ。


「わかった。薬をくれ」

「牛の乳でも暖めて、飲んでおいて」

「は?」


 理解できないとばかりに鴆は眉根を寄せた。


花椒ホアジャオ丸薬がんやくよ。毒害はない。暫くは喉まで痺れるけど」


 蟹を網にいれ、慧玲は袖を振って背をむける。さすがに毒は、盛らなかった。いまのところは。


(というか毒師がどれくらい毒に耐性があるか、解らないし。毒で競うには不利すぎる)


 背後から笑い続けるヂェンの声が、いつまでも追い掛けてきた。

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