31 火刑と毒の雨

依依イーイーの処刑をただちに取り辞めてください!」


 後宮のひつじさるの方角には、刑場がある。

 表で裁くわけにはいかない妃妾きしょうや女官等の罪を処するためにおかれていた。この刑場が最もつかわれていたのは渾沌こんとんたる先帝の頃だ。先帝はきまぐれに妃妾を処刑した。なにかの身替わりであるかのように。

 先帝は後に、こことは別の宮廷の刑場で死刑に処された。だが姑娘である慧玲は、他でもないここに連れてこられた。


(だから、ここには近づきたくなかったのに)


 息をきらして駈けこんできた慧玲をみて、官吏かんりたちはあからさまに眉を険しくした。


「陛下が御決めになられたことだ。食医如きが異を唱えるなど……」

「食医であるが故に、申しあげるのです!」


 依依イーイーが皇后毒殺未遂の罪で火刑に処されることになったという報せを聞き、慧玲は青ざめた。罪人はおもに斬首刑となる。火刑はめったに取りおこなわれるものではない。皇后が受けたのと同じ苦痛を与えようという皇帝の私怨が如実に反映されていた。


 かといって慧玲は、依依を減刑を望んでいるわけではない。


「火の毒に侵され、身のうちから燃えあがるのならばいい。ですが火の毒に侵された者に外側から火を放てば、爆発し、毒の煙があがりかねません」


「なんだと?」

「だが、今更、処刑を取り辞めるなど……」


 これには、官吏たちも動揺をあらわにした。


「刑を取りさげる必要はありません。一度診察させてくださるだけで」


 そのときだ。処刑の開始を報せる鐘が鳴り響いた。

 藁や薪が燃える悪臭が漂いはじめる。

 慧玲は官吏たちでは埒があかないと、刑場に駈けこむ。刑場には火刑を見物しようとする妃妾や宦官が集まっていた。


(いつの時代も娯楽に飢えたものは処刑すら娯楽にする……なんて嘆かわしい)


 強引に人垣を掻きわけながら慧玲は声を張りあげて、火刑の中止を訴える。やがて人の壁を乗り越えたとき、間にあわなかったことを知った。



 依依イーイーが燃えていた。

 磔にされた依依は燃えさかる火に喰われながら、弾けるように嗤いだした。恐怖で壊れたのかと観衆は眉を顰めた。


「ふふッ、あははははッ……――――許さない」


 嗤い続けた後に落とされたのは、凍えるほどの怨嗟に満ちた声だった。

 騒いでいた群衆がぞっと竦み、静まりかえる。火よりも遥かに強い怨みの焔が依依のなかで滾っていた。


「燃やされたものが燃やして、なにが悪い!」


 吼えるように彼女は叫喚した。


フォン様はただ、ふたつの部族を愛しておられただけだったのに! 希望を奪い、凬様の愛するものを焼きはらった皇帝を許さない! 呪ってやる、皇帝も、皇后も! この国も全部ッ!」


 渇ききった瞳を剥き、唾を散らして、依依は呪詛を振りまく。

 その凄絶な様に身が竦んで、慧玲は動けなくなった。


「許すものか! フォン様だけだったのに! わたしは凬様だけを愛して……ああ! 凬様を奪ったものすべてが……呪わしい!」


 だから、異様な煙があがり始めたことに気づくのがおくれたのだ。


フォン様……貴女様が怨み続けるというのならば、依依イーイーもご一緒に地獄まで参ります……」


 依依の頭が、弾けた。

 頭だけではなかった。その身は紅蓮ぐれんけ、惨たらしい華の残骸を隠すように煙が勢いよく噴きあがる。煙はうねりながら暗雲となって、上空で渦をいた。

 誰もが事態を把握できず、呆然となっている。


 ほつと、雫が落ちてきた。

 雨垂れを弾いた木の葉がじゅっと燃える。


「いけない! 軒に隠れて!」


 我にかえった慧玲が叫んだのがさきか、雨が降りだす。うるしのような怪しき雨だ。

 いっせいに悲鳴があがる。処刑を観にきていた妃妾や宦官、処刑に携わる官吏かんりたちが火でもついたように恐慌をきたす。


「いやあっ、なによ、これ」

「あああああっ、うそよ! こんな!」


 雨に濡れたそばから、肌が焼けただれる。

 

 まさに《火毒かどくの雨》だった。

 妃妾たちは我さきにと逃げ惑い、あるいは激痛に倒れこみ動くこともできないものもいた。慧玲は外掛はおりを掲げて振りまわしながら、雨を弾いて軒に潜りこむ。火毒の雨は絹をも燃やす。彼女も腕や頬に火傷を負った。毒であるかぎり、彼女に喰らえないものはない。

 焼けこげて穴だらけになった外掛はおりを握り締め、慧玲は地獄の有様ありさまに立ち竦んだ。


 焼けただれた妃妾たちが地でのたうちまわっている。


(怨みの毒は、これほどまでに……むごいものなのか)


 ほんとうにこれを喰らいつくすことができるのか。なにもかも奪われた、といった依依の言葉に胸を掻きむしられる、こんな脆さで――慧玲は血潮がにじむまで、強く唇をかみ締めて。


「いま、助けます」


 敢えて、毒の雨のなかに身を投じる。


「つかまってください」


 まだ助けられるものは助けなければ。気絶しかけていた妃妾の腕をつかみ、肩を貸して軒まで運ぶ。肌の燃える激痛が、毒に痺れた頭を醒ましてくれた。


(私は、薬だ――毒じゃない。毒には喰われない)


 今、彼女に助けられるものはわずかだとしても、薬とはどんなかたちであれ、人を助くためにあるのだから。雲が散って雨が降りやむまで、慧玲は毒の嵐のなかを駈け続けた。

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