18 禁毒の暗殺者と毒喰らいの皇姫
慧玲の頭のなかにある白澤の書が勢いよく解かれる。蛇の毒、蟲の毒、禽の毒、いずれも違う。彼は口に毒を含んではいなかった。
最後にあるのは、
禁毒の典型は《
だがこれを人の身で為すという、更に罪の重い《毒》があった。
「……おまえ、《
「っと、さすがだな。この毒も識っているのか」
白澤の書いわく――《人毒》たるは蛇、蠍、蜥蜴、蜘蛛、茸、植物等の千種の毒を服しては死に絶える限界で解毒を繰りかえすことで為る。人が《毒》を帯びるのだ。
「ご明察だ。この身は《人毒》を帯びている。血潮の一滴から唾にいたるまで、毒蠍、毒蛇に匹敵する猛毒だ。こうして毒を取りこませれば、十秒も経てば血を
水の膜を通すように鴆の声が段々と遠ざかり、聴き取れなくなっていった。耳が毒にやられたのだ。他の五感も錆びついていく。そのくせ、痛覚だけは麻痺することなく、身のうちを掻きみだす。慧玲がなおも立ち続けているのは意地だけだった。薬の一族が、毒師風情に膝をついてなるものかと。
濁る意識のなかで心臓の脈動だけが、明瞭に響いていた。
どくり――また、どくりと。
これは、殺すためだけに造られた毒だ。だが最も悍ましい毒とは如何なるものか、慧玲は経験から識っている。
それは、殺す毒ではない。
なればこそ。
(この毒を喰らえ)
心臓がまた強く、重く脈を打つ。
毒が心臓を侵しはじめているのか――違う、逆だ。彼女の身のうちにいる《もの》が今まさに、毒を飲み乾しているのだ。
慧玲の
一陣の香風に吹き払われて、視界の霞が晴れた。続けて聴覚がもどってくる。緊縛を解かれたように腕や脚が動くようになった。
肌を侵していた毒の文様が最後に滲んで、消滅した。
一部始終を観察していた鴆が瞳を細める。
「あんた、毒がきかないのか」
「私は万毒を喰らうといったはず」
慧玲は毒を飲みくだしたことを証明するように唇を舐め、鴆を睨みかえす。
孔雀の笄が揺れて、玲瓏なる調べを奏でた。孔雀。毒蛇をも喰らうことから古くは神の遣いと称えられた
彼女は万毒を克服している。
睨みあいを経て、
「……たまらないな」
魅惑されたように口の端をゆがめた。
「奇麗な微笑みで巧妙に隠し続けているつもりみたいだが、僕には解るよ。あんたの瞳の底には絶えず、焔が燃えている。それは忿怒で、怨嗟で、絶望で――復讐への渇望だ」
鴆が声を低く落として、囁きかけてきた。
「殺したいやつがいるんだね」
風を吹きこまれたように慧玲の瞳が、どうと燃えあがった。
「僕が殺してやろうか」
鴆は嗤った。悪辣に。それでいてあまやかに。
「……おまえが殺すのは私でしょう」
「辞めたよ。剣で刺せば、喉を締めあげれば、
喉がひきつった。殺意をむけられたときとも、禁毒に侵されたときとも違う。解明できない毒に逢ってしまったような、恐怖感がある。何かを言いかけて、ひゅうと風だけが
「貴女の底にある《毒を喰らう毒》を、ひきずりだしてやるよ」
吹きつけてきた春の嵐に笹が擦れあって、騒めく。
雲がながれて、竹林に清かな月影が差す。端麗な
「また、逢おう。ああ、もちろん、食医と風水師としてね」
嫌らしいほどに親しげな言葉をひとつ残して、彼は昏がりに身を融かす。つけてきたときとおなじく、笹を踏む音もなく、気配だけが遠ざかっていった。
緊張の糸を絶たれ、慧玲はすとんと脚から崩れた。まともに呼吸もできていなかったことにいまさら気づき、胸を膨らませる。
(復讐だけが)
謗られても、疎まれても、怨まれても。
立ち続けるための。
(よすが、だ)
けれど、それは。
(あなたには、殺せない)
どれだけ強い毒をもっていても。
いかに砥がれた剣があっても。
(殺せるとすれば――《薬》でだけだ)
だから彼女は、この身の《毒》を絶たねばならない。焔を絶やすことなく、《毒》だけを。
毒と薬は、紙一重である。
だがそれゆえにひとつになることは、ない。そのはずだった。だが、遇ってはならぬはずの毒と薬がいま、逢った。
玄天から星が落ちる。
彗星は緑に
慧玲だけが天を振り仰ぎ、想った。
(ああ、そうだ。父様が処された晩も星が落ちたのだった)
秋になったばかりとは思えぬほどに月も凍てつく宵だった。帝の死を嘆いたのかどうかはさだかではなくとも、確かにあの晩、幾百の天星が涕泣した。
絶えまなく降り続ける星のなか、彼女はあるものをみた。
語れば、大逆罪となる。だが、語ったところで誰が信じようか。ついに壊れたかと嗤われるだけに違いない。慧玲とて、実際にみていなければ、信じられなかった。
それでも確かにあの晩――――麒麟が、死んだのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます