13 薬膳の宴 其の壱

 雲のない蒼昊そうこうに、雅やかなしょうの音が韻々いんいんと響きわたる。


 春季しゅんきの宴がいよいよに始まった。


 雅楽ががくの旋律に舞うように桜吹雪が廻る。青と桜を映してたゆたう水鏡は、万華鏡を想わせた。水路に張りだして組みあげられた高床たかゆかの舞台には季妃きひ、嬪、婕妤しょうよとあわせて二十二の華が集められ、優雅に春を嗜んでいた。


 一段あがった上座には皇后の姿もある。麒麟紋きりんもん簾幕れんまくが掛けられていた。

 季節の宴は妃嬪の親睦をはかるものでもあるが、ひそかに皇帝が訪れて側室の品評をすることもあるという。妃嬪たちは競うように一張羅で身を飾り、絢爛なるかんざしを頭が傾ぐほどに挿していた。


 皇后が挨拶の締めにいう。


「医は食なり。健全なる身は完全なる食から為る――昨今、春陽しゅんよう群雲むらくもの陰りあり、と聴いたわ。春季しゅんきの宴では、ぜひとも皆様がたに薬膳を振る舞いたく、どうぞこころゆくまでご堪能なさって」


 二胡にこの二重奏が披露されるなか、帽子をつけた司膳しぜんの女官たちが脚のついた食膳が運んできた。


 予想どおり、雪梅の舞は宴の最後を飾ることになりそうだ。


 慧玲フェイリンは有事に備え、帽子で銀の髪を隠して女官に紛れていた。雪梅シュエメイ嬪の席にむかい食膳を据える。雪梅嬪は気がついて声をあげかけたが、視線で制した。

 雪梅嬪は毒に侵された身を隠すように唐紅からくれないの上掛を羽織り、髪には梅の意匠のかんざしをひとつ挿していた。彼女ならば、もっと飾りたてるだろうと想っていたので意外だった。


 食膳には五種の前菜が載せられていた。

 桜や梅や蝶に飾り切りされた人参や大根が華やかだ。妃嬪から歓声があがる。


「宴の膳はまず、瞳で食すとか。薬膳と聴いて華やかさに欠けるのではないかとおもいましたが、ふふふ……これは期待できそうですわね」


 春の季妃が嬉しそうに箸を取る。

 春の宮を統べるにふさわしき窈窕ようちょうたるひめだ。ともすれば、慧玲と変わらない年頃にもみえるが、季妃のなかで最も年を重ねているという噂もあった。実際のところは解らない。


 まずは冷葷ロンフン

 猪の蒜泥白肉スヮンニー バイロー鮑魚あわびの酢の物、搾菜ざーさいだ。

 蒜泥白肉スヮンニー バイローとは茹でたばら肉に擦りおろした大蒜にんにくと香油のたれをかけたもので、大陸北部の料理として知られる。

 酢の物には鮑魚あわびだけではなく刻んだ銀耳シロキクラゲが一緒にあえられ、たっぷりと香橙ゆずがしぼってあった。さわやかな香が食欲を増進してくれる。


「ん、まあ、おいしい」

「誠にこれが、薬膳なのですか」


 薬膳といえば、健康にはよいが、独特の香りが強くて味はまずまず、という印象が広くある。だが前菜を食べ進めるにつれて、妃嬪の先入観がほろほろと崩れていく。


 続けて熱盤ローパンの二種。こちらは前菜チエンツァイといってもほんわりと暖かい。


「あら、花菇しいたけだわ……なんてめずらしいのかしら」


 熱盤ローパンの皿には花菇しいたけの炒め煮が盛られていた。

 さきほどの銀耳シロキクラゲもそうだが、花菇しいたけはさらに希少だ。豊饒な林にだけ群生し、富める者だけが食すことのできる茸として知られている。

 炒め煮にされた花菇しいたけは香りよく、かめばかむほどにじゅわりと旨みが溢れだした。


 続けてもう一品。こちらは白みそが掛かった鴨の焼き物だ。弾けるような脂の乗った鴨に白味噌が絡みあい、上品な味わいになっていた。


「鴨からも柑橘の香が致しますわ。これはどういった趣のものなの。薬膳というからには効能があるのでしょう?」

「え、あ、それは」


 司膳の女官が言いよどむ。慧玲フェイリンがすかさず妃嬪の側に進み、解説を添えた。


「申しあげます。鴨にぬられた白味噌にひとつまみだけ、陳皮チンピという漢方薬が練りこまれています。これは蜜柑の皮を乾して砕いたものです」


「ふうん、どういった効能がありますの」


陳皮チンピは胃腸の働きを健やかにする理気薬りきやくというものです。血の循環めぐりを調え、冬のうちに衰えてしまった免疫を修復いたします」


 妃嬪は納得して、さらに箸を進めた。

 取り繕いながらも瞳の端を強張らせていた雪梅シュエメイ嬪だったが、鴨の焼き物を頬張った一瞬、ふっと笑った。


(雪梅様の御口にあったのか。よかった)


 慧玲が胸をなぜおろす。

 全員が五種の前菜に舌鼓を打つなか、酒が振る舞われた。


「八角の蜂蜜酒でございます。まずは香りをお楽しみください」


 宮廷の宴ではかならず銀製の杯がつかわれる。銀は毒に触れるとくすむため、毒殺をふせぐことができるとされたが、一部の毒には反応を表さない。水銀蜂の毒にも杯は鈍らず、奇麗なままだった。


 妃嬪たちは杯をまわして、漂った芳香を胸に吸いこむ。


「蜂蜜というよりは、質のよい白檀みたいな香ね」


 銀の杯に唇を浸す。こくり――細い喉を滴り落ちていく甘露の雫が、死に到る猛毒だとも知らずに。


 雪梅嬪も箸をおいて、杯を傾けている。


 毒とは苦きものだ。蜜酒も舌に触れたときは程よい甘みが拡がるが、すぐに痺れるような苦みに変わる。だが、この度は毒の苦みを感じさせないよう、あらかじめ前菜を食べてもらい、妃嬪たちの舌を調整した。


 それだけではない。


 前菜には毒のめぐりをおくらせ、水銀蜂すいぎんばちの毒の分解を促すための食材を取りそろえた。

 前菜を食べ終わり、大皿小皿に移る。紹興酒漬けの海老からはじまり、魚翅フカヒレの姿煮、芙蓉蟹フヨウガニと続いた。海の食材をふんだんにつかうことで、今度は水樒ミズシキミの蜜の解毒を進めていく。正確には、この工程は解毒ではなく、毒を薬に転換する仕組だった。


 水樒は《木の毒》だが、《水の毒》の特性を強く含む。さらに細かく分類すれば《淡水の毒》だ。川の魚を海に放てば息絶えるように《淡水の毒》は《海水の薬》で中和される。


「順番に提供していただけるのね」

満漢全席まんかんぜんせきみたいですわ」


 妃嬪が話しあっているとおり、これは古朝こちょうの時代に振る舞われていた満漢全席を復刻したものだ。

 もともとは百品を超える料理が順番に提供され、三日三晩掛かって食したというが、王朝の衰退によりこれほどまでの贅をつくすことはなくなり、途絶えた。だがこうして縮小したものならば、現在でも振る舞うことができる。


 それにしても、と妃嬪が食膳に目線を落として、頬を綻ばせた。


「なんて綺麗なのかしら。これが食なの? まるで名残の雪ね」


 芙蓉蟹フヨウガニだ。芙蓉蟹とは蟹のほぐし身を卵で綴じたものである。それだけならば有り触れているが、卵白のみをつかうことで、ぷるぷるとした食感と綿雪を想わせる美しさが楽しめた。

 本来は芙蓉の花を模したものだが、いまの季節にみれば最後の雪のようでもあり、降り続ける桜吹雪とも重なる。


「さっきの海老も美味しかったわねえ」

「ねっとりとあまみがとろけて……頬が落ちてしまうかとおもったわ」


 妃嬪たちは一様に神経を張りつめていた。競いあい、誰かを失脚させてでも皇帝の寵愛をつかむのだと喧々していたのだ。だが食をかこんでいるうちに気もちがやわらぎ、他人と喜びを分かちあうようになっていった。


 続けては炸山菜やさいのてんぷらだ。樰芽たらのめ蕗薹ふきのとう竹笋たけのこ独活うど等々。いずれも春を報せる山の菜だ。どこでも摘める野の草ばかりだが、米粉をまぶして揚げれば、豪華な食材と一緒にならんでいても違和感のない逸品になった。

 雪の季節を乗り越えて萌えだした植物には、ひと冬のうちにじんに溜まった毒を解毒する効能がある。昔からの庶民の知恵だ。


(食は、平等ではない)


 慧玲は胸のうちで考える。


(でも、食に幸福を感じる心は等しい。食は命を繋ぐものだ、薬もまた然り。故に――)


 薬とは、楽しき物であるべきだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る