9  宴に毒の陰有り

 庖房くりやの朝は慌ただしい。

 日も昇らぬ暁七つ※朝五時から朝餉あさげの支度が始まる。後宮に暮らす約五百人分の食事を一カ所で担っているのだから、大変さがわかるというものだ。庖房くりやでは尚食局しょうしょくきょくに属する約五十人の女官たちが働いている。朝餉の時刻を終えてひと段落つく頃に食材を積んだ荷馬車が続々と庖房についた。皇后が催す春季しゅんきの宴にあわせて、各地から取り寄せられた食材が庖房に運びこまれていく。


 慧玲フェイリンは食材を確認するため、庖房を訪れていた。


(それにしても「後宮の疎まれものというのも伊達じゃないな」……こうもあからさまに無視されるとは。視線があったら石になるとでも思われているんじゃないの)


 慧玲が宴の食膳を監修することは伝達されていたはずだが、女官たちは徹底して慧玲を無視した。歓迎されないことはわかりきっている。慧玲は丁重に挨拶をしてから、女官たちの邪魔にならないように食材を検めていった。


 熟れた果実や茸、蔬菜そさい、乾燥させたあわびや帆立、新鮮な海老等の魚介類からうずらなどの肉類まで、妃嬪でもめったに食べられない貴重な食材ばかりがならぶ。


(身の締まった鶉だ。しっかりとたれにつけて、焼けばそれだけでもご馳走ね。こっちの茸は花菇しいたけか。なんてい香り……今朝収穫したばかりだろう。こんなに高級なものを調理できるなんて)


 慧玲フェイリンとろけるような瞳をして、ごくりと喉を動かした。


(ああ、なんて、おいしそうなのだろう)


 希少な食材の質がわかるのは実際に食べた経験があるからだ。帝姫ていきの頃から後宮の宴に参加したことはなかったが、母親と旅をするなかで各地の名産を食べ、実地で調理と味を勉強してきた。


(いけない……よだれが。この頃は毎日毎日、雑穀の粥か、具のない饅頭まんとうばかりだったから、つい。飢えないだけ有難いけど、さすがに飽きてきた……さあ、仕事しないと)


 貴重な生薬しょうやくなども揃っていたが、雪梅シュエメイ嬪の薬に適したものはない。これも違う、あれも不要だと振りわけていると、宦官が最後に青磁の大甕おおがめを運んできた。蓋が締まっていてもなお、強い薫香くんこうが鼻に触れる。


「あの、それはいったい、なんでしょうか」


 慧玲に声を掛けられた宦官は、露骨に嫌がりながら答えた。


八角はっかくの蜜酒です。春季の宴で振る舞うために大陸の南部から取り寄せたとか。貴重なものですので、盗み飲みなどはせぬように――」


 慧玲はすでに宦官の言葉など聴いていなかった。棚におかれていた木の匙を取り、宦官が制めるまでもなく舌に乗せ、飲みこむ。


「あっ、ああ、なんてことを!」


 燃えるような甘露だ。頬が蕩けるほどにあまいのに、後には妙な苦味が残る――慧玲は瞳を見張る。背筋がさあと凍てついた。


 香だけならば、八角と然して違いはない。

 だがこれは、


(すぐにでも誰かに知らせなければ)


 いや逆だ。何者にも知られては、ならない。

 何故ならば――猛毒だからだ。




               ◇




「なんですって」


 雪梅シュエメイ嬪が怒りの声をあげた。


「もう一度いってみなさいよ」


 たいする慧玲は穏やかな微笑で繰りかえす。


春季しゅんきの宴席にて雪梅嬪の薬を調えたいと思い、ご承諾を……」


 言い掛けたところで茶杯を投げつけられた。頭からぬるい茶を被り、銀の髪からほたほたと雫が垂れる。


「宴までに薬を調えるといったはずよ」

「それはお約束致しておりません。『演舞までに』薬を調えますとは申しあげましたが」

詭弁きべんだわ。食事までにわたくしの舞を披露せよといわれたら、どうするつもりなのよ」


 慧玲は濡れそぼりながらもすくむことなく続けた。


「雪梅嬪の舞は宴の余興とされるようなものではありません。かならず、宴の掉尾とうびを飾ることになります。それは雪梅嬪が誰よりも御存知なのでは」


 雪梅嬪はふんと唇をとがらせた。


「……いいわ。もとから薬などなくとも、舞うつもりだもの」


 雪梅嬪を侵す梅はいっそう華やかに咲き群れていた。

 一昨日までは爪を飾っているだけだった梅はすでに左腕を侵食している。枝になった肱が倚子から投げだされ、だらりと漂っていた。まだかろうじて梅に侵されていない右側の指には、硬い胼胝ができている。杖を握り締めて舞の練習をしているせいだと慧玲にはすぐに想像がついた。


 強がってはいても、ほんとうは不安に違いない。事実、彼女はもとから諦めているといいながら、茶杯を投げつけるほどに怒ったのだ。


「それではこう致しましょう。薬が調えられず、雪梅嬪の御顔に泥を塗るようなことがあれば、そのときは」


 慧玲は胸を張って、誓った。



「この命を差しあげましょう」



 雪梅嬪は頬でも張られたように息をつまらせて、瞳をゆがめた。取り残され、傷ついたこどものような哀しい絶望だ。


「命なんて――」


 彼女は言いかけた言葉を飲みくだして、丹唇をつりあげ、いびつに嗤った。


「……ふふ、馬鹿みたい。そんなもの賭けられないくせに」


 瞳は昏かった。これまでの癇癪かんしゃくとは違う静かな怒りだ。凍てつくような視線を身に受けながら、慧玲はひき結んでいた唇を解いた。


「患者は医師に命を委ねます。ならば、医師もまた患者に命を預けて然るべきです」


 患者を助けられずに殺すことになれば、慧玲は即、死刑に処される。だが、例えば死刑にならずとも、彼女は命を賭しただろう。なぜならば、それは最愛の母親にして師から受け継いだ白澤はくたくの信条だからだ。

 雪梅嬪は慧玲に課せられた制約は知らない。だが慧玲の言葉から強い気魄を感じたのか、彼女は戸惑いを覗かせた。


「言葉ばかりが巧みなのね」


「ご安心を。私は、嘘をつきません」


 真実を黙っていることはあっても。


「嘘とは、毒ですもの」


 毒、と微かに唇が動き、雪梅嬪は項垂れるように視線を落とす。足許で咲き続ける紅梅こうばいをみて、なにを想ったのか、ぽつりといった。


「……お好きになさって」


 風が舞いこんで、哀しげに梅が香った。

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