8  麗しき風水師と会う

 黄昏がせまっていた。

 茜を経て、空の端が紫に陰りだす。塒に帰る鳥の群が雲を抜けていった。廻廊の軒に提げられた吊灯篭つりとうろうにひとつ、またひとつと火が燈された。

 だが、幾百の灯を燈しても宵の帳を遠ざけることはできない。

 影とは照らされるほどに昏くなるもの。それゆえか、華やかな後宮には不穏な噂が絶えなかった。


「地毒の禍も絶えぬというのに、皇帝陛下は毎晩、後宮に御渡りになっているとか」

「そういうな。陛下も不惑の御歳※四十歳を過ぎてもまだ御子がおられず、御不安なのだろう」

「だが、どなたからもご懐妊なさったという報せはないな」


 司灯に属する宦官たちが眉根を寄せて、喋っている。後宮で噂の風を吹かせているのは女だけとはかぎらない。


「毎晩渡って、まだおひとりも懐妊させられないなんてことがあるのか。まさか、種があらぬのではあるまいな」

「確か、おひとりだけ嫡子がおられたはずだ。だが五年も前に行方知れずになったとか」


 貴宮たかみやから春の宮に帰ってきていた慧玲フェイリンは廻廊をひきかえすべきかと考えを巡らす。


 妃妾の噂などは毒にも薬にもならぬものばかりだが、これは度が過ぎていた。公になれば、不敬罪で処されかねない。宦官たちも部外者に聴かれては分が悪いだろう。

 だが、なやんでいるうちに廻廊の角から宦官たちがせまってきた。聴こえていなかった振りをしてすれ違おうとしたが。


「貴様、話を盗み聞きしていたな」


 慧玲に気づいた宦官が顔色を変え、袖をつかんできた。


「なんのことでしょうか」

「しらばくれるなよ。どぶ鼠のようにこそこそと姑息なまねをしやがって。噂をまき散らして内乱の火種とする魂胆だろう。渾沌こんとんは争いを最たる娯楽とするというからな」


(好き放題に噂をしておいて、まったくひどい言い草だ)


 ため息をつけば、それが気に障ったのか、宦官はさらに声を荒げた。


「馬鹿にしているのか! 罪人の分際で」


 力任せに突きとばされた。

 不運にも後ろには階段があった。落ちる――と身を強張らせた慧玲だったが、衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。かわりに腕を握られ、腰を抱きかかえられる。


「ふうん、コクの後宮では宦官が妃妾を突き落とすのか」


 秀麗な風貌の男が慧玲を抱きとめていた。丁年※二十歳を過ぎたばかりといった若者だ。艶のある黒絹の漢服をみるに宦官ではない。だが後宮の者ならば、そもそもが渾沌の姑娘を助けようなどとは考えないはずだ。


「それは妃妾きしょうではございません。卑しい罪人の姑娘です」


 宦官が忌々しげにいったが、青年は柳眉をあげた。


「へえ、無抵抗な姑娘をしいたげることは卑しくはないのか」


 宦官はぐぬうと呻いて悔しまぎれに悪態をついた。


「貴様……何者か、名乗りもせずに……」

「ただの風水師だよ。左丞相さじょうしょうの命で後宮の風水を視察にきた」


 左丞相といえば皇帝の補佐官だ。官職のなかでも最高位にあたる。宦官は一様に絶句し、青ざめた。


「あなたがたの皇帝陛下にたいする言動は眼に余るな。質の悪い宦官を働かせていては後宮の衛にも綻びができかねない。左丞相に報告したいところだが」


「ど、どうかお許しを」


 宦官たちは縮こまり、跪いて額をつける。解雇された宦官は乞食こじきになるほか、道はない。男は唇にだけ微笑を湛えながら黒曜石を想わせる双眸そうぼうで宦官たちを睨みつけた。


「二度はないよ」


 宦官たちは縮こまりながら我さきにと逃げていった。後ろ姿がみえなくなってから、慧玲はまだ男に抱かれていることに気がつき、おずおずと声をあげる。


「……あの」

「ああ、後宮の女にみだりに触れては怒られてしまうね」


 男が腕を解いた。

 華もじてうつむくほどの美青年だ。雪花石膏せっかせっこうを彫りあげたような鼻筋に程よくとがった顎。時々紫がかる眼睛がんせいが一重の双眸ひとみのなかで鈍く輝いていた。竜を想わせる瞳だ。底の知れぬ理知を漂わせている。腰に掛かるほどに伸ばした髪を紐で結わえ、さらりと背に垂らしていた。仙風道骨せんぷうどうこつとはこういうことか。


「助けていただいて、ありがとうございます。ですが今後は、私のことは捨ておかれたほうが賢明かと」


 慧玲は丁重に頭をさげて、微笑みかけた。男は意外そうに表情を崩す。


「迷惑だったかな。この階段は、ざっとみても二十段はある。落ちたさきには石畳が敷かれているから、貴女は運がよければ骨折。最悪、即死だったろうけれど」


「そうですね。残念ながら私は武道の心得もなく、階段から落ちて受け身が取れるとも想いません。どうか、誤解なさらず。御厚恩には感謝致しております。それゆえに申しあげるのです。あなたは宮廷に御越しになられたばかりのようですから」


 左丞相はかねてから現皇帝の党派に属しており、先帝とは確執があった。先帝の姑娘である慧玲フェイリンのことも疎んじており、皇帝が彼女の処刑を取りさげたときも最後まで反対していた。


「へえ、それは……貴女が先帝の姑娘むすめだからか?」

「左様です。私はうとまれものですもの」


 うつむいて卑下するでもなく、哀れみを誘うように嘆くでもない。いっそ晴れやかに彼女は言いきった。

 自慢にもならないことだが、事実なのだから気後れもしない。


「先帝の帝姫ていきは処刑されたと報されていたが、後宮のなかに隠れているとはね」

「まあ、私は処刑されたことになっているのですね」


 慧玲はいまさらとんでもないことを知って、瞳を見張った。


 後宮は世俗せぞくから孤絶された華の箱庭だ。後宮では周知の事実であっても、秘するべきことが外部には洩れることはない。民にはわざわいのもとたる先帝を族誅ぞくちゅうしたと報せ、禍根を絶ったのだろう。


「哀しまないのか」

「なにゆえ、哀しむことがありましょうか」


 死者として扱われていようと、この身があるかぎりは為すべきことを為すだけだ。いまさら哀しまなければならない理由が理解できず、瞬きを繰りかえしていると、彼はそぞろに相好を崩した。


「変わっているね、貴女は」

「そうでしょうか」

「ずいぶんと強かだ」


 強い、ではなく。


「ありふれた喩えだけれどね、貴女は柳みたいだ」


 吹きつける嵐に葉をさらし、凍てつく雪に枝をしならせども折れることなき柳。みずからの境遇に嘆かず、憤らず。


「僕はヂェンだ。きっと、またすぐに逢うことになるよ」


 柳の枝にたわむれるように鴆はすれ違っていった。

 袖振りあうほどの縁だ。それなのになぜか、肋骨のあいだから旋風つむじかぜが吹きこんだように胸が騒いでならなかった。彼に触れられた肌が痺れるような熱を帯びている。毒にでも触れたように。


(また逢うことになる、か)


 縁とはしきものである。逢うべくして結ばれる縁もあれば、絡んではならなかった縁もある。それゆえに縁は、時に不動なる宿命をも動かす。

 それが禍か、福かはわからずとも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る