8 麗しき風水師と会う
黄昏がせまっていた。
茜を経て、空の端が紫に陰りだす。塒に帰る鳥の群が雲を抜けていった。廻廊の軒に提げられた
だが、幾百の灯を燈しても宵の帳を遠ざけることはできない。
影とは照らされるほどに昏くなるもの。それゆえか、華やかな後宮には不穏な噂が絶えなかった。
「地毒の禍も絶えぬというのに、皇帝陛下は毎晩、後宮に御渡りになっているとか」
「そういうな。陛下も
「だが、どなたからもご懐妊なさったという報せはないな」
司灯に属する宦官たちが眉根を寄せて、喋っている。後宮で噂の風を吹かせているのは女だけとはかぎらない。
「毎晩渡って、まだおひとりも懐妊させられないなんてことがあるのか。まさか、種があらぬのではあるまいな」
「確か、おひとりだけ嫡子がおられたはずだ。だが五年も前に行方知れずになったとか」
妃妾の噂などは毒にも薬にもならぬものばかりだが、これは度が過ぎていた。公になれば、不敬罪で処されかねない。宦官たちも部外者に聴かれては分が悪いだろう。
だが、なやんでいるうちに廻廊の角から宦官たちがせまってきた。聴こえていなかった振りをしてすれ違おうとしたが。
「貴様、話を盗み聞きしていたな」
慧玲に気づいた宦官が顔色を変え、袖をつかんできた。
「なんのことでしょうか」
「しらばくれるなよ。どぶ鼠のようにこそこそと姑息なまねをしやがって。噂をまき散らして内乱の火種とする魂胆だろう。
(好き放題に噂をしておいて、まったくひどい言い草だ)
ため息をつけば、それが気に障ったのか、宦官はさらに声を荒げた。
「馬鹿にしているのか! 罪人の分際で」
力任せに突きとばされた。
不運にも後ろには階段があった。落ちる――と身を強張らせた慧玲だったが、衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。かわりに腕を握られ、腰を抱きかかえられる。
「ふうん、
秀麗な風貌の男が慧玲を抱きとめていた。
「それは
宦官が忌々しげにいったが、青年は柳眉をあげた。
「へえ、無抵抗な姑娘を
宦官はぐぬうと呻いて悔しまぎれに悪態をついた。
「貴様……何者か、名乗りもせずに……」
「ただの風水師だよ。
左丞相といえば皇帝の補佐官だ。官職のなかでも最高位にあたる。宦官は一様に絶句し、青ざめた。
「あなたがたの皇帝陛下にたいする言動は眼に余るな。質の悪い宦官を働かせていては後宮の衛にも綻びができかねない。左丞相に報告したいところだが」
「ど、どうかお許しを」
宦官たちは縮こまり、跪いて額をつける。解雇された宦官は
「二度はないよ」
宦官たちは縮こまりながら我さきにと逃げていった。後ろ姿がみえなくなってから、慧玲はまだ男に抱かれていることに気がつき、おずおずと声をあげる。
「……あの」
「ああ、後宮の女にみだりに触れては怒られてしまうね」
男が腕を解いた。
華も
「助けていただいて、ありがとうございます。ですが今後は、私のことは捨ておかれたほうが賢明かと」
慧玲は丁重に頭をさげて、微笑みかけた。男は意外そうに表情を崩す。
「迷惑だったかな。この階段は、ざっとみても二十段はある。落ちたさきには石畳が敷かれているから、貴女は運がよければ骨折。最悪、即死だったろうけれど」
「そうですね。残念ながら私は武道の心得もなく、階段から落ちて受け身が取れるとも想いません。どうか、誤解なさらず。御厚恩には感謝致しております。それゆえに申しあげるのです。あなたは宮廷に御越しになられたばかりのようですから」
左丞相はかねてから現皇帝の党派に属しており、先帝とは確執があった。先帝の姑娘である
「へえ、それは……貴女が先帝の
「左様です。私は
うつむいて卑下するでもなく、哀れみを誘うように嘆くでもない。いっそ晴れやかに彼女は言いきった。
自慢にもならないことだが、事実なのだから気後れもしない。
「先帝の
「まあ、私は処刑されたことになっているのですね」
慧玲はいまさらとんでもないことを知って、瞳を見張った。
後宮は
「哀しまないのか」
「なにゆえ、哀しむことがありましょうか」
死者として扱われていようと、この身があるかぎりは為すべきことを為すだけだ。いまさら哀しまなければならない理由が理解できず、瞬きを繰りかえしていると、彼は
「変わっているね、貴女は」
「そうでしょうか」
「ずいぶんと強かだ」
強い、ではなく。
「ありふれた喩えだけれどね、貴女は柳みたいだ」
吹きつける嵐に葉をさらし、凍てつく雪に枝をしならせども折れることなき柳。みずからの境遇に嘆かず、憤らず。
「僕は
柳の枝にたわむれるように鴆はすれ違っていった。
袖振りあうほどの縁だ。それなのになぜか、肋骨のあいだから
(また逢うことになる、か)
縁とは
それが禍か、福かはわからずとも。
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